「小学校の校内暴力/教師相手3割増」(文部科学省調査による、2005年9月23日、朝日新聞)なのだそうです。と発表しているのですから、「小学生の校内暴力」はあるのだと思う。ずっと昔小学生だった頃も、そこそこ乱暴者がいて、その乱暴をめぐり、他の乱暴者達が争ったり、覇を競ったりしていました。が、ずっと昔の小学校ではそれらのことを「校内暴力」と言ったりしませんでした。で、調査発表によれば小学生による「対教師暴力」は「・・・?教師の胸ぐらをつかむ。?いすを投げつける。?故意にケガを負わせる。」こと、などだそうです。どんな乱暴な昔の小学生も、そんな恐ろしいことはしなかった。今、教師が弱くなってしまったのか、小学生が強くなったのか。「小学生の校内暴力」問題は、別の紙面に、調査報告にまとめられた現場からの声として詳しく報告されています。「・・・『この子たちの共通点は、親から暴行を受けていることなんです』と、先生は話す。『てめえがやったら体罰教師やで』。別の関西の小学校で、50代の男性教師のすねを思い切り蹴った6年男子の言葉だ。『教師の暴力が問題になるということを、逆手に取る子がいる』と栃木県の若手教師は言う」。(同、朝日新聞)。
だったとしても、文部科学省の調査発表をこんなかたちで報道してしまうのは“変”です。学校現場の管理職の報告を鵜呑みにし→市町村教育委員会の報告を鵜呑みにし→文部科学省の報告を鵜呑みにし→鵜呑みにした新聞報道ということになって(これって、“ダイホンエイハッピョウ”)、結果は、問題のある家庭の問題のある子どもの問題ということになってしまいます。さらに結果は、公立小学校は危ないということにもなってしまうのです。
時あたかも、“関関同立”と呼ばれたりする学校が、小学校を開設することが話題になっています。たとえば、「小学生の校内暴力」に、とことん教育で挑戦する試みかと思ったら、どうもそうではなくって、どこかが言い出し「ウチもやる」で広まってしまった小学校の開設計画らしいのです。で、結果どんなことになるのか。「小学生の校内暴力」が大問題になって、そんな危ない公立ではなく、とりあえずは選別された大丈夫な子どもたちの集まる、有名私立小学校にうちの子を入学させようが、どんどん一人歩きすることになります。で困ったことだと思うのは、限られた定員の枠を突破する為の“お受験”競争が、このあたりの幼稚園などを巻き込んで起こるだろうことです。「小学生の校内暴力」報道も、有名私立小学校の開設も、小学生ぐらいの子どもたちにいったい何が起こっているのか、どうして言葉で了解しあえなくなってしまったのか、本当のところは何一つ考察しないで、“ダイホンエイハッピョウ”をしています。
「幼児期」(岡本夏木著、岩波新書、2005年5月)を読みました。公同幼稚園には、講演で来て頂いたこともある、岡本さんの講演を久しぶりに聞く機会がありました。主催者は、本人が現れるまで“女性”だと思い込んでいて、髪の薄くなった岡本さんが現れたのにはあたふたしていました。講演の時岡本さんは、“・・・病院へ行って、『オカモトナツキさん』と呼び出されると、みんな僕のことジロジロ見るんですよ”とよく笑わせたりします。
「幼児期」は、とてもいい本です。人が“育つ”生きものであることを、久しぶりに納得させる、いっぱいの文章にこの本で出会うことができました。人が“育つ”原点というか“根っこ”のところが幼児期なのです。公同幼稚園で毎日出会っている子どもたちのことからも、そのことは充分に納得できることです。「幼児期」は「?章 なぜ『しつけ』か」、「?章 なぜ『遊び』か」、「?章 なぜ『表現』か」、「?章 なぜ『ことば』か」、「終章 内なる幼児期」の構成になっています。以上の章の構成からも「幼児期」は、いわば当然のことを記述しています。岡本さんは「・・・情報化や能力主義への批判も保守的保育論の典型と切り捨てる人もあるでしょう」とも言っています。しかし、?~?の4つの側面は、「・・・現在でも幼児の生活や保育において重要な意味を持つ」「それらが内蔵する発達的契機も基本的に変わるものではない」こととして、そっくりそのまま了解できます。と言うか、こうして岡本さんが書くことに励まされ、いわば西宮公同幼稚園の“保守的保育”、子どもたちとの生活は繰りひろげられてきました。
“暴力”でもなく、“暴力と決めつける”のでもなく、多くのことは言葉によって解決し得ることを、「幼児期」の岡本夏木さんから、他ならない子どもたちとの生活から納得してきたように思う。
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