こそく【姑息】 〔「姑」はちょっと、「息」は やむ・それでいいの意〕根本的に対策を講じるのではなく、一時的にその場を切り抜けることができればいいとする様子だ。〔俗に、「やり方が卑劣だ」の意にも用いられる。より口頭語的な表現では「その場しのぎ」とも〕「―な手段」
みくびる【見《括る】 〔「くびる」は、「くびれる」の連用形の名詞用法「くびれ」を他動詞化したものに基づく〕〔他を、自分より低く見なす意から転じて〕たいしたことではないと判断する。「相手を若造と見括って手を焼く/情報の重要性を見括ったばかりに思わぬ失敗を喫した」
上記「こそく」「みくびる」と辞解は「新明解国語辞典」(三省堂、第七版2012年)からの引用です。ずいぶん前に、関西神学塾の講義の折、桑原重夫先生に「これいいぞ!」と教えてもらった辞典で、岩波の「国語辞典」の代わりに使うようになりました。「漢字の構造を通じて、字の初形と初義を明らかにする『字源の字書』」をもって認ずる「字統」(平凡社、白川静)を教えてもらったのも桑原重夫先生です。別に「福音書異同一覧」(塚本虎二)、「新約聖書・語句索引/希和、和希、黒崎幸吉」を教えてもらったのも桑原重夫先生です。たとえば新約聖書の福音書(マルコ、マタイ、ルカ)を読む場合、本来はギリシア語のテキストを「読める」ことが前提ですが、それがかなわなくても、なんとか「ウソ」や「ゴマカシ」にならない程度の読み方が可能になる3冊です。なかなか手に入りにくいこの3冊を、「スガサワ、あったぞ!梅田の梁山泊!」と電話で伝えてくれたのも桑原重夫先生です。3冊とも、手放せない本になっています。
その「新明解国語辞典」の「こそく」「みくびる」そのままの発言や出来事を、最近見ることになりました。沖縄戦から71年「慰霊の日」の「安倍首相のあいさつ(要旨)」です。
沖縄戦において、戦場に斃(たお)れた御霊(みたま)、戦禍に遭われ亡くなられた御霊に向かい、謹んで哀悼の誠を捧げますとともに、御遺族の方々に、深く哀悼の意を表します。
71年前、ここ沖縄の地は、凄惨(せいさん)な地上戦の場となりました。平和の礎(いしじ)に刻まれた方々の無念、残された人々の底知れぬ悲しみ、沖縄が負った癒えることのない深い傷を想(おも)うとき、ただただ、頭(こうべ)を垂れるほか、なす術(すべ)がありません。
私たちは、戦後70年以上を経た今も、沖縄が大きな基地の負担を背負っている事実を重く受け止めなければなりません。今後とも、国を挙げて基地負担の軽減に取り組んでまいります。
今般、米軍の関係者による卑劣極まりない凶悪な事件が発生したことに、非常に強い憤りを覚えています。米国に対しては、私から直接、大統領に日本国民が強い衝撃を受けていることを伝え、強く抗議するとともに、徹底的な再発防止など、厳正な対応を求めました。米国とは、地位協定上の軍属の扱いの見直しを行うことで合意し、詰めの交渉を行っております。二度とこうした痛ましい犯罪が起きないよう、対策を早急に講じてまいります。
(6月24日、朝日新聞)
この「あいさつ」の後半部分で言及しているのが、「元海兵隊員による残虐な蛮行」です。「卑劣極まりない必要な事件が発生したことに、非常に強い憤りを覚えています。米国に対しては、私から直接、
大統領に日本国民が強い衝撃を受けていることを伝え、強く抗議するとともに、徹底的な再発防止など、厳正な対応を求めました。」
「あいさつ」で、事件を「卑劣極まりない凶悪な事件が発生したことに、非常に強い憤りを覚える」と言及し「私から直接、大統領に日本国民が強い衝撃を受けている」としていますが、だからと言って、その「衝撃」を何かの形にする訳ではありません。沖縄の人たちは、それが繰り返される(3月には、沖縄旅行中の女性が、米海兵隊員によってレイプされたなど)事件であること、まさに衝撃を繰り返すことがあってはならないとの思いを沖縄、島の人たちが呼びかけたのが県民集会です。「元海兵隊員による残虐な蛮行を糾弾!被害者を追悼し、沖縄から海兵隊員の撤退を求める県民大会」。日本政府首相(わたし)は、折から来日中の米大統領に強く抗議しますが、翁長雄志沖縄県知事の直接米大統領に会いたいとの申し入れについては仲介を拒みます。首相のあいさつの「強く抗議」「徹底的な再発防止など厳正な対応」は、「地位協定上の軍属の扱いの見返し」は「軍属」限定になっています。沖縄が求めているのは、繰り返される事件・事故の当事者である沖縄の米海兵隊員の撤退です。「あいさつ」する首相(わたし)が米国に求めているのは、徹底的な再発防止と言いながら、「米国とは、地位協定上の軍属の扱いの見返し」と「軍属」限定なのです。こんなのが、「新明解国語辞典」の「こそく」にあたるのだと思います。
そのようにして、日本国首相が率先して「こそく」であるだけでなく、「みくびっている」としか言いようのないのが、以下の新聞記事だったりします。「政府高官は、翁長氏が平和宣言の中で辺野古移設に反対したことについて『首相は一日を沖縄に捧げたのに、なぜああいうことを言うのか理解できない。沖縄は普天間を政治利用している』と憤った」(6月24日、朝日新聞)。翁長知事が平和宣言で言及したことの一つが「日米安全保障体制と日米地位協定の狭間(はざま)で生活をせざるを得ない沖縄県民に、日本国憲法が保障する自由、平等、人権、そして民主主義が等しく保障されているのでしょうか」でした(平和宣言要旨)。3月レイプ事件、5月の「元海兵隊員による残虐な蛮行」は「・・・狭間(はざま)」で起こった事件です。この事件が、「日米安全保障体制と日米地位協定の狭間(はざま)」で起こったのが明らかだとすれば、「残虐な蛮行」を悼み、追悼するのは日本国とその国民であるはずです。そうして悼み、追悼するよりない事件・事故が繰り返されてきました。その元にある問題・原因が、それを引き起こす米海兵隊員であるとすれば、そのことへの言及があいまいであるのは「こそく」であるし、前掲の「憤った」「政府高官」がしているのは、翁長知事の平和宣言が言わんとするところを何一つ聞かず、沖縄の人たちを「みくびる」以外の何ものでもありません。たぶん「政府高官」は沖縄の人たちを「日本国民」とは見なしていません。もし「政府高官」が言うように「首相は一日を沖縄に捧げた」のだとすれば、日本国民の沖縄県民に自らの意志でそれを捧げたのであって、決して特別に沖縄県民の為であり得ないはずです。「政府高官」が上記のように「憤った」のだとすれば、翁長知事の平和宣言の「・・・保障されているのでしょうか」は何一つ聞いていないことを意味します。
たぶん、「政府高官」が「首相は一日を沖縄に捧げた」と口走ってしまう時に、そこには間違いなく「本音」が語られています。それは、「一日を沖縄に捧げる」安倍首相のあいさつ「・・・ただただ、頭(こうべ)を垂れるほかなす術(すべ)がありません」も、ほぼ空っぽの頭の、何一つ事柄の本質に挑むつもりもない、そんな無為無策を語って恥じない人(たち)であり、その言葉なのです。
アベ政治を許さない!
[バックナンバーを表示する]