いわゆる政治の世界の選挙には、いい思い出がありません。中でも、田舎の高校生の頃、母方の祖父の選挙(市長)で、トラックの荷台で“土下座”している祖父を目撃して、「(恥ずかしいから)止めて欲しい」と手紙を書きました。母は、そんな祖父(父親)の選挙に否応なく付き合うことになりました。何よりも悩み心苦しかったのは、おびただしい人たちに、「お願いします」「お願いします」と頭を下げ、確かに苦労をかけるのですが、その世話になったことに対して返すことができないというか、返しようがないことだったように思えます。
母の兄(伯父)も田舎の政治の世界の選挙に関わる人でした。もちろん、伯父の政治の世界の選挙にも母は巻き込まれることになりました。
そして、父親の時より、伯父の時より、更に母や姉が田舎の政治の世界の選挙の渦中に巻き込まれることになったのが、息子・長男の選挙(県議会)でした。父は、学校の教師でしたが、田舎の政治の世界の選挙には、あれこれ深く関与していました。早くに亡くなった祖父の跡を継ぎ、田舎で生きる時、その立場を積極的に受け入れていましたから、政治の中でも「保守」の国政・政治家の揮毫のある「書」が、居間・応接間などにかけられていて、たぶんそれが自慢でした。もちろん、その場合の「保守」は、母方の祖父、伯父の場合も同様でした。
そんな「保守」に囲まれた田舎の政治の世界の選挙で、兄が持ち込んできたのは、いわゆる「革新」でしたから、田舎の政治の世界の選挙で、家族・親族はもちろん、周辺のすべてが大混乱させられることになりました。「保守」で「保守のまま」の父は、自分の息子の政治の世界の選挙では、家族・親族はもちろん周辺のすべてに対して、「革新」の息子の応援を求めました。その時の母親の兄・伯父は田舎の政治の世界の選挙では「保守」の一員として議員(市議会)をしていましたから、たとえ、妹の息子・甥であっても応援することはできませんでした。「保守」の父および母と母の兄の関係は難しくなりましたし、母の兄弟・姉妹などの親族はそのことで悩むことになりました。このことを一層難しくしたのが、母の兄の息子が同じ選挙区で、議員(県議会)に立候補してしまったことです。“従兄弟”同志で、選挙戦を戦うことになってしまったのです。田舎では、どちらにとっても大切な親族が、戦いのどちらかを選ばざるを得なくなり、そんなことになってしまう原因を引き起こしてしまう、息子と甥を持ってしまった抜き差しならない渦の中でもど真中に置かれてしまったのが母です。田舎に限らず、政治の世界の選挙は、中でもそれが身内の場合、避けて通ることは難しくなります。田舎(富山県・氷見)と西宮は離れていましたが、身近にいる母から姉から悲鳴が聞こえてくると、全く知りませんという訳には行かなくて、少なからずその悲鳴には答えることにはしました。その一つが、選挙戦が終わってからの、「事件(選挙違反)」「事故(病気)」などの後片づけを手伝うことでした。もちろん、たいしたことはできませんが、何が起ころうと、「見守っている」人間が一人でもいることは、母や姉の少なからずの心の安心にはなったはずです。
そんな、兄と従兄弟の選挙戦が何度かあって、従兄弟が市長になることで一段落することになりましたが、更に従兄弟が保守の国政の議員になることで、「戦争」の様子は少し変わったようですが、従兄弟の関係者が候補者(県議会)になったりして、「戦争」は続いているようです。そんなこんなですが、西宮の生活が長くて、田舎の政治の選挙は少なからず遠い世界のことになっています。で、その田舎の政治の選挙のことで、亡くなった父が時々語っていた「本音(たぶん)」を覚えています。父の何よりの願いは、とても解りやすくて、息子(長男)の生活の安定でした。どんな議員でも、落っこちてしまうとただの人で、生活の手段を失うことになります。その当時、3期とか4期続けると「年金」がもらえるようになるようで、「年金をもらって(生活が安定して)欲しい」というのが、父の何よりの願いでした。父親にとっての息子が議員であるのは、なんと言うことはない、要するに他のどんな仕事とも違わない仕事だったのです。議員を応援するということは、その人が生きて生活する仕事を応援するということでもある訳で、そのことは忘れない方がいいというのが、祖父、伯父、兄、従兄弟たちの、議員を見ていて思わされることです。
そんな身近な政治を見続けてきて、いわゆる政治というものは冷めた目で見てきました。要するに選挙に首を突っ込むことは生き方として避けてきました。
そうして大切にしてきたはずの生き方を変えることになってしまったのが、沖縄辺野古新基地建設反対の座り込みに参加して、出会うことになったいい人たちの影響で、その一つが、宜野湾市長選挙でした。沖縄の市長選挙が、国の政策で押し進められる辺野古新基地建設反対を左右・揺さぶるのだとすれば、宜野湾の人たちからの呼びかけに答えざるを得ないということで、選挙グッズ、応援歌を作り、「最大限」の応援をすることになりました。この選挙を応援することになった、もう一つの、そして何よりの理由は、国が相手候補をあらゆる手段かつあからさまにてこいれしていたからです。更に、もう一つの理由は、この選挙が、立場を超えたたくさんの沖縄の人たち(オール沖縄)によって扱われていたことです。選挙は政治ですから、政治党派(的なもの)の影響は避けられず、いわゆる市民が政治の選挙に、口や顔を出しにくくなってしまいます。沖縄の人たちの多数は、そうした「政治」の党派的な立場の違いより、当面の問題である「米軍基地!」をすえざるを得ないことで、立場を共有することになりました。「オール沖縄」です。
その沖縄の人たちから呼びかけられたのが、自分たちの足元の選挙で頑張ることでした。
兵庫県の阪神間でもそのことでの動きがあり、それが市民が中心になって国政選挙への参加を呼びかけた「みなせん」(ともかく、みんなで選挙・投票行動をしよう、そのことでアベ政治体制を崩す!という呼びかけ)でした。もし、この働きが候補者の選任にまで影響力を持つことができれば、兵庫と大阪から「改憲勢力」に反対する議員を一人ずつ国政に送り込むことができたはずです。残念ながら、市民の働きが、政党政治の選挙体制を崩すまでには至らなくて、兵庫でも大阪でも、いわゆる「改憲勢力」を国会に送り出すことになってしまいました。残念だったのは、「みなせん」が沖縄から学んで目指した、いわゆる政治ではなく、市民が自分たちの生活に根ざした日常の言葉で政治を語る一人になって、政治そのものを変える力や機会を作り出せなかったことです。いわゆる政治の壁が、それを許さなかったのでしょうが、取り返しの付かない敗北を喫したのは、市民一人一人であると同時に、いわゆる政治でもあったことを政治は肝に銘じるべきであるように思えます。敗北は、沖縄にこの国の政治の圧力を集中させてしまうことになります。沖縄北部で計画されている、もう一つの米軍基地、高江のヘリパットを、本土から500~1000人の機動隊員を送りこみ、力ずくで建設することがさっそく始まっています。
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