沖縄辺野古の座り込みで、いちばん元気で激しく、そして事柄を筋立て本質に迫って発言するのが仲宗根勇さんです。「沖縄差別と闘う/悠久の自立を求めて」(仲宗根勇、未来社)に目を通していて、辺野古の座り込みに参加するようになり半年くらい経ってから、たぶんこの人だろうと思った「一番元気で激しくそして事柄を筋立てて本質に迫って発言する」人が、仲宗根勇さんでした。著者略歴によれば、1941年生まれ、東大法学部卒で、1992年に「最高裁、簡易裁判所判事試験で、裁判官に任官」「2010年、定年退官」となっています。裁判官であったことがそのまま「事柄を筋立てて本質に迫って・・・」人であり、かつ前掲の著書によれば、1970年代の沖縄返還の頃には、激しく闘った一人で、沖縄の戦後の今日に至るまでを見通していた人でもあることが解ります。(仲宗根さんには、辺野古の座り込みの合間に、“ファンです!”と差し出し、前掲の著書にサインをしてもらいました)。その仲宗根さんが「未来」(未来社の季刊の宣伝用小雑誌)2016年夏号に、沖縄・辺野古からの報告を書いています。「<リレー連載>オキナワをめぐる思想のラディックスを問う7/沖縄・全基地撤去へ渦巻く女性遺体遺棄事件の波動/辺野古新基地問題=裁判上の『和解』後の闘い」。で、小雑誌にしては長いこの論文は「・・・沖縄の環境と未来と誇りを守るとともに、右翼・安倍晋三内閣による世界に冠たる日本国憲法の改悪革動を許さない、平和と人権を守る沖縄における辺野古・高江の闘いは人類史的な闘いのフロントに立つ」で結ばれています。
そんな元気で激しい仲宗根勇さんを度々登場させ、著書も発行する出版社・未来社は、昨今の書物・出版の苦境をもろにうけています。「・・・いまのように経営や本作りに追われまくっていろいろなケアができないことが残念でならない。編集した本が売れてこそ、喜びも倍増するのだが、そういうオイシイ場面を『編集』する楽しみが得られなくなっているからである」(西谷能英、未来社代表)。その未来社が1月に発行した「ダッハウ強制収容所自由通り」(エドモン・ミシャレ著、宇京 賴三訳)を読むことになってしまいました。「なってしまいました」と言わざるを得ないのは、今までナチスの強制(絶滅)収容所についての記録・文書に、少なからず目を通していて、改めて「・・・人間の尊厳を徹底的に剥奪される」人たちのことが突きつけられる事実の耐え難さに、付き合ってしまったという意味で、です。著書のエドモン・ミシュレ(フランス)は、1943年から1945年まで、ダッハウ強制収容所に、政治犯として収容されます。「一般に、強制収容された者は、本書にもある通り、まず衣類所持品を剥ぎ取られ、素っ裸で『消毒』と称するシャワーを浴びせられ、坊主刈りにされて『囚人』としての洗礼を受ける。奴隷的世界への通貨儀礼である。次いでSSやカポ(ナチの親衛隊及び収容所『職員』)の殴打、鞭打ち、棒打ちなどの暴力のなかで、飢え、寒さ、強制労働、虱にチフスといった逆境を生きることになる。そして時を経るにつれ、人間の尊厳を徹底的に剥奪され、『人格』を根こそぎ破壊され、奴隷か獣のような家畜的存在に落とされる」(記者、あとがき)。本文は「記者・あとがき」の「のような」ではなく、著者が生きて体験した耐え難い事実の記述です。強制収容所は、「強制労働」を嫁すことが原則で、ナチのもう一つの収容所「絶滅収容所」は、収容して殺すことが目的でした。その時のどんな死も、「殴打、鞭打ち、棒打ちなどの暴力」「飢え、寒さ」などの果てにやってくる死です。絶滅収容所は文字通り、人間という存在を「絶滅」する場所だったのです。ダッハウは人間という存在をおびやかす強制収容所です。1944年から45年にかけて、ドイツ・ナチが戦線で劣勢になって混乱する、ダッハウに、同じ強制収容所のブーヘンヴァルト、絶滅収容所のアウシェヴィッツから収容者が移送されてきました。「白日夢のような末期になって、護送列車がダッハウにブーヘンヴァルトやアウシュヴィッツ収容所の余剰物を吐き出すまでは、大量移送はワルシャワ・ゲットーの最後の生き残りとか、ハンガリアのユダヤ人から成っていたが、この残り屑は我らが収容所に相応しくないことは了解済みのように思えたので、どうしてここに送られてきたのかわからなかった。このユダヤ人たちは、筆舌に尽くしがたいような状態にあった。看護棟の記録保管所Registraturでは、私も彼らの登録に関与していたが、はまったく無駄な作業を行わなければならないことに苛立っていた。かろうじて数日間の命で、助骨、骨盤、大腿骨の形を浮き彫りにした、皺だらけの灰色の皮膚の覆いが残っているだけのこの骸骨たちは、最後は自動人形のような反応でしか動けないのは明らかだった。彼らは、我々の前で、立ったまま、地面に糞尿を垂れ流しても気づかないまでになっていた。彼らのサビール語(ごったまぜの言葉)は、なにか音を発する力が残っていても、理解不能だった。しかし――またおそらくそれが新しいことだが、――シャワー・ショーから出て来ても、彼らは虫に食われた穴だらけのままだった。発疹チフスが収容所に出現したのは、彼らによってだった」。「かろうじて数日間の命」の後、このユダヤ人たちは殺されて「焼却」されました。ダッハウにも「焼却炉」があり、立ちのぼる煙は昼も夜も絶えることがありませんでした。エドモン・ミシュレのこの本の原題は「自由通り―ダッハウ1943~1945」ですが、「自由通り」は、ダッハウ強制収容所の、収容棟を左右に分ける通りに付けられた名称です。更に、それが自由通りであるのは、収容棟の屋根に、ナチがかかげたスローガンに由来します。「朝夕の点呼は同じ場所、同じ建物の前で、同じ儀式に従って行われたが、その屋根の上にはいつも、心挫けるスローガン「自由への道が存在する・・・Es gibt ein Weg zur Frei heit・・・」が大きなゴシック文字で臆面もなく不快に浮かび上がっていた」。
ドイツ・ナチによって、収容棟の屋根にかかげられていたスローガン、「自由への道が存在する」ダッハウ強制収容所では「1933年から1945年まで、ダッハウ収容所は23か国から、およそ25万人の抑留者を収容した。約7万人が虐待を受けて命を落とし、14万人がほかの強制収容所へ移送され、3万3000人が、1945年4月29日、アメリカ第7師団の手で解放された」(「ナチ強制・絶滅収容所/18施設の生と死」マルセル・リュビー、菅野賢治訳、筑摩書房)。上記「ナチ強制・絶滅収容所」によれば、絶滅収容所のアウシュヴィッツの犠牲者について「死者の総数を知ることは、まず不可能である」とし、その理由として「ナチスが収容所撤収前に関係資料を大部分を焼却してしまったこと」などをあげていますが、およそ250万人と推定されています。「かつて、ポーランドにおけるドイツの犯罪に関する総合調査委員会は、アウシュヴィッツの犠牲者の総数を250万人と推定した」「アウシュヴィッツの司令官ヘスは、ニュールンベルグ裁判における陳述のなかで、当初、死者250万人という数字を提出した」(前掲「ナチ強制・絶滅収容所」)。ドイツ・ナチの収容所の「人間の尊厳を徹底的に剥奪」は、沖縄の人たちが、辺野古で高江で闘うことを選ぶ時に奪われる「沖縄の環境に未来と誇り」と、通底しているように思えます。
未来社は、他に、ドイツ・ナチに関する書物を多数発行していますが、日本各地の「民話」の編集・発行でも大きな仕事をしてきた出版社です。
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