人間には、たとえイナゴになりさがっても、イナゴはイナゴなりに、規律と尊厳を課すことができる。一言でいえば、それは「様式(スタイル)」なのだ。そして、それ以上は問わない。イナゴになった事実についてはとやかく言わないで、どうすればもっともマシなイナゴになれるかを考える。当然、あらゆる限界を伴ってはいるが、クセノポンには、完璧な技術的効率をめざす現代の倫理観が見てとれる。
(「なぜ古典を読むのか」I・カルヴィーノ、河出書房)
東電福島の事故は、地震・津波で停止した原子炉を冷やす電源のすべてが喪失(全電源喪失)した結果、炉心溶融になってしまった過酷事故です。「全電源喪失」となった東電福島は、3000度近い高温で燃料棒が溶融し、「五重の障壁…放射性物質を『閉じ込める』」(「原子力発電所の現状」2010年版・東電)壁のすべてが破壊されることになりました。ペレット、被覆管、圧力容器、格納容器が高温で溶け、建屋はそれらの事で発生した水素ガスで吹っ飛んでしまったのです。炉心溶融事故です。
事故直後から、炉心溶融が指摘されていましたが、東電(国)は炉心損傷という言い方(事態)をゆずらず、2か月余り経った5月15日に事故は炉心溶融であることを公式に認めました。炉心溶融と判断する基準や定義になるものがなかったからだと説明していましたが、5年近く経って、当時東電に「防災マニュアル」が存在し、そこには「5%の炉心損傷」は、炉心溶融であると記されていたことも明らかにされました。炉心溶融の基準がないとしてきたこと、しかし炉心溶融の基準を明示した「防災マニュアル」が存在したことを意図的に隠し続けたことで設けられたのが、「福島第一原子力発電所事故に係る通報・報告に関する第三者検証委員会」で、2016年6月16日に「検証結果報告書」が東電社長に提出されています。
報告書は、東電福島の事故の経緯を追い、繰り返し「炉心溶融」の問題を言及します。その場合の要点として繰り返し示されるのが、国、学会、そして東電にも、炉心溶融の基準や明確な定義が存在しなかったという「主張」です。東電福島の事故前から東電には「防災マニュアル」があって、そこには炉心溶融の基準が明示されています。炉心溶融は「炉心損傷が5%以上の場合」となっていました。地震・大津波で、東電福島の全電源が喪失し、そんなに時間が経たないうちに、炉心の損傷が進み、早い段階で35~50%の炉心損傷が確認されていましたから、事故は炉心溶融の過酷事故だったのです。しかし、東電(そして国も)は、東電福島の事故が、炉心損傷事故であるとしてゆずらず、2か月後の2011年5月15日になって、炉心溶融であることを認めました。そして5年近く経って、東電には事故当時「防災マニュアル」が存在したこと、そこには炉心溶融の基準も示されていることを明らかにします。その「虚疑・隠蔽」を受けて設置されたのが、「第三者委員会」であり報告書です。その報告書は、国・学会そして東電にも、炉心溶融の明確な定義が存在しなかったことを繰り返し「主張」します。
東京電力が発行する小冊子「原子力発電の現状」(2010年度版、東京電力)の「Ⅵ、原子力発電所の安全対策」には「9、アクシデントマネジメント―過酷事故への対応」が取り上げられています。その場合も、「(1)、アクシデントマネジメントとは/米国スリーマイルアイランド原子力発電所事故のように、安全評価において設計上想定している事実を大幅に超えるものであって、たくさんの燃料が損傷するような大事故のことを「過酷事故(シビアアクシデント)」といいます。」とあり、炉心溶融とはしません。以下、9の(2)、(3)でも、シビアアクシデント、そしてアクシデントマネジメントを「過酷事故への対応」とはしますが、その事実を炉心溶融とは認めません。そして、「(3)、具体的な対応策~まず予防に重点をおき、発電所内にあるあらゆる設備を有効に活用しています~」とあるように、あくまでも過酷事故で炉心溶融ではないのです。その場合に「『確率論的安全評価』と呼ばれる手法」を用いることでも炉心溶融を想定外にしますが、その根拠として「発電機能を強くすること」で、「過酷事故を防止・緩和する上で有効である」としています。その「防止・緩和」の対策が「電源供給機能の強化」なのに、東電福島の事故は、地震・大津波の結果、全電源が喪失し、過酷事故即ち炉心溶融になった事故です。東電の「原子力発電の現状」で、炉心溶融と言及するのを避けるにあたり、その根拠とされる場合の「確率論的安全評価」を記載しているのが、明確に定義しないのだから、定義のないものを「原子力防災概説」(独立行政法人、原子力安全基盤機構、平成21年9月)です。そこでは、「炉心溶融を招いた米国スリーマイルアイランド原子力発電所事故」が「炉心溶融」として言及されていますが、「アクシデントマネジメントの整備の結果」、そして「確率論的安全評価」の評価結果によれば、わが国の原子力発電所では、結論としては炉心溶融は想定外ということになります。その結果、第三者委員会の報告書は国、学会、そして東電も炉心溶融を評価のしようがないと繰り返し「主張」することになります。
「検証」ということがあり得るとしたら、検証する側の「主張」ではなく、事実関係を具体的な資料にもとづいて検討し、批判に耐え得る報告書としてまとめ、それを公表するのが役割のはずです。「東電福島事故の通報・報告」の場合であれば、検証委員会に課せられているのは、炉心溶融の基準が文書化されていたにもかかわらず、そのことも文書化されていた「災害マニュアル」を隠した、その事実を明らかにすることで足りるはずです。炉心溶融は事故後間もなく起こっていたし、基準もそれを確認するマニュアルも存在したのです。東電はそのすべてを隠蔽しました。
もし、検証の結果、別の何かが明らかになるとすれば、チェルノブイリ事故、スリーマイル島事故にもかかわらず、日本の原子力行政、電気事業者は炉心溶融は起こらないとし、そのことが起こらないのが前提でしたから、炉心溶融に到る事故の、事故対策は、そもそもが必要ではなかったのです。
しかし、東電福島で、炉心溶融は起こってしまいました。
今、その事故の事故対策で、2つのことが浮上しています。
1つは、原子力損害賠償・廃炉等支援機構が、溶融燃料(燃料デブリ)を建屋内に閉じ込める「石棺」に言及したことです。東電福島の炉心溶融事故対策は、その溶融燃料を取り出し廃炉にすることで進められています。しかし、こうして進められているのが、事故を起こさないことが前提の核燃料が溶融し、閉じ込める容器も溶かし、手が付けられなくなっているものに手を付ける矛盾としか言いようのない事故対策が強いられていることです。一部溶融だったスリーマイル島では、溶けた燃料を取り出すのは不可能ではありませんでした。全部が壊れて手の付けようがなくなったチェルノブイリでは、施設全体をすっぽりそのまま覆ってしまいました。「石棺」で、「石棺」の損傷が著しい為、今、「再石棺化」の工事が進められています。
東電福島の場合も、事故対策があり得るとすれば、より現実的なのは「石棺」です。原子力発電所の安全対策である「放射性物質を『閉じ込める』」「五重の障壁」のすべてが壊れ(溶融)、手が付けられないとすれば、その全体をすっぽり覆ってしまう「石棺」以外、残された道はないと考えるのが現実的だからです。もちろんそれは、東電福島の事故に収束がないことを認めることを意味します。
もちろん、「放射能をコントロールできている」とも言えなくなります。降り注いだ放射性物質を除染して、元の住居(市町村)に戻るとも言えなくなります。
ですから、原子力発電所究極の事故・東電福島の事故の検証・評価にあたり、その究極の事故の事実、炉心溶融を避けて通ることで、第三者委員会の報告はまとめられることになりました。炉心溶融という事実は起こっているが、それと向かい合わないことにしてしまうのです。
そうして、東電福島の事故の事実、炉心溶融に向かい合わない、政府の方針として示されるのが「帰還困難区域、一部解除」です。そこが帰還困難区域であるのは、事故の東電福島の隣接していること、放射物質が年間50ミリシーベルトを超える地域であるからです。人間が普通に生活してはいけないから、帰還困難区域です。帰還があり得るとしたら、放射物質が年間1ミリシーベルト以下になり、東電福島の事故がコントロールされていることです。そのいずれも、達成困難である時、たとえば炉心溶融という事故の事実を、可能な限りあいまいにすることは、「放射能はコントロールできている」とする、対内、対外に切った「大見栄」の為にも、必要な条件になります。各地で始まっている、原子力発電所の再稼働は、その事が目的でなくはありませんが、原子力発電所の炉心溶融という究極の事故から目を逸らす「安心」を流布する為にも、必要とされているようにも見えます。
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