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2016年09月01週
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 辺野古新基地建設反対で集まってくる人たちの中で、誰よりも論理的で時にはそれを叫んでいる(ように見える)元気なおじいちゃんが、仲宗根勇さんです。
 2015年2月から辺野古に行くようになって、読んでいた本の一冊が「沖縄差別と闘う/悠久の自立を求めて」(仲宗根勇、未来社)でした。本の帯には「30年の沈黙を破って沖縄の知性が知事選、辺野古闘争に奮闘する兄妹にささげる緊急アピール/安倍壊憲内閣の虚妄を撃つ」とあり、冒頭の「ガッティンナラン!政府主権『主権回復・国際社会復帰を記念する式典』」の「ガッティンナラン!」も、「破って」「撃つ」そのままに激しいものでした。何度も辺野古に通って、だいぶん経ってから、元気なおじいちゃんと、前掲の本の著者が結びつくこととなりました。そして、元気に叫ぶ時にも前掲の本でも「破って」「撃つ」のは、「沖縄差別」です。
 仲宗根勇さんは、「帯」によれば「1972年の日本『復帰』をめぐって反復帰論の指折りの論者として名を轟かせ」「30年の沈黙を破って」の、30年のうちのおよそ20年は裁判官が仕事でした。「破って」「撃つ」時の怒りが、少なからず法律の専門家の言葉であるのは、そんな仕事をしてきたことに由来するのは、なるほどと思えます。「破って」「撃つ」は激しくはあるのですが、論理的で筋が通っているのです。
 最近、ルソーの「人間不平等起源論」をざっと読んで、更に「社会契約論」を読み始めて、「破って」「撃つ」その怒りが、裁判官であった仲宗根勇さんの、法及び法が法として成り立つ契約の根本に立った時に、必然的に噴出する怒りであったことに、やっと気付いています。
 2017年度の国の予算概算要求で新聞が社説で、危機感の乏しさを憂えています。「『施策の優先順位を洗い直し、無駄を徹底して排除しつつ、予算の中身を大胆に重点化する』来年度予算編成の出発点となる各省庁からの概算要求について、政府が今月初めに決めた基本方針の一節である。言葉は力強い。だが現実はといえば、決意表明はどこへやら、未曽有の財政難への危機感の乏しさは驚くばかりだ。きょう締め切られる概算要求の総額は、3年連続で100兆円を超える」。「『できるだけ多くの予算を獲得するために目いっぱい要求する』と言わんばかりの省庁が多い」「そうした中で目を引くのが、内閣府が所管する沖縄振興予算だ。要求 は今年度当初より140億円少ない3210億円。米普天間飛行場の名護市辺野古への移設をめぐって対立する翁長雄志知事を牽制したのでは、ともささやかれる。菅官房長官はそうした見方を否定したうえで『予算については、効果的な政策を実現するために必要に応じて歳出を見直し、不断の努力をするのは当然。沖縄振興予算も例外ではない』と強調した」「ならば、問いたい。そうした『不断の努力』をすべての省庁がすべての予算について尽くしたのか、と」(8月31日、朝日新聞・社説)。
 新聞の社説が「ならば、問いたい・・・」と問う減額要求となった沖縄振興予算とは別に、各省庁の予算要求の多くは増額となっています。国の概算要求の基準と、沖縄振興予算の要求の基準が意図的に変えられているのです。中でも、「県が自由に使い道を決めることができる『一括交付金』が1338億と、前年度より274億円減った」ことに、それが端的に表れています。この予算の場合のように、国が沖縄に対して別の基準を設け、予算の減額にも明らかにからんでいるのが、沖縄の基地問題です。2017年度予算のことで、沖縄に押しつけられる二重基準は、露骨に沖縄の基地問題がからめられています。
 日本国内(本土)のどこにもあり得ないことですが、沖縄では沖縄の人たちの強い反対にもかかわらず、基地の新設・増強が進められています。
 町のど真中にあって、沖縄の人たちの強い反対にもかかわらず、オスプレーが配備された米軍普天間基地では、日本の負担で基地施設の改修が始まります。「危険」だから移設が求められる普天間基地に、「より危険」なオスプレーの配備を強行し、更にその為の基地改修を日本の負担で行うのを沖縄の人たちが黙認するなら、予算を減らしたりはしないと言わんばかりなのです。
 激しい反対にもかかわらず、「銃剣とブルドーザー」で踏みにじって強行された、伊江島の基地も、基地機能が拡張・拡大されています。もちろん、その時も今も、沖縄の人たちは伊江島の米軍基地を認めてはいません。
 普天間基地の移設ということで計画されている辺野古新基地は、その建設反対の意思を、市長選(名護)、衆院選、知事選、県議選、そして今回の参院選で沖縄の人たちは示してきました。この反対の意思には、沖縄で戦われることになった戦争の惨渦が決定的に大きいのはもちろん、辺野古新基地建設による破壊から大浦湾の自然を守るという、沖縄の人たちの強い意志が背景になっています。大浦湾の海の自然は、他の日本(本土)の多くの人たちが守りたいと思っているのと同じ、沖縄にとっても日本(本土)にとっても、かけがえのない海の自然です。新基地建設が「唯一の選択肢」になってしまう時、沖縄の人たちの意思も、沖縄のかけがえのない海の自然も壊されてしまいます。
 「30年の沈黙を破って」辺野古のキャンプシュワブゲート前に立って叫び、「安倍壊憲内閣の虚妄を撃つ」を書く仲宗根勇さんが依って立ち、かつ見つめているのは、沖縄と日本(本土)に、恣意的に適用される「二重基準」とその虚妄です。沖縄で生きて、時には「破って」「撃つ」、辺野古で叫ぶ仲宗根勇さんは、確かに「1972年の日本『復帰』をめぐって反復帰論の指折りの論者」なのでしょうが、その確かさの根っこのところにあるのは、たとえばルソーがその「社会契約論」で示している「人間の尊厳」であるように思えます。たとえばそれは、ルソーが「社会契約論」で「第四章ドレイ状態について」で述べていることに、そのままあてはまります。「専制君主は他の臣民に社会の安寧を確保する、という人もあろう。いかにも。しかし、彼の野心が臣民たちに招きよせる戦争や、彼のあくことなき貧欲や、彼の大臣どもの無理難題が、臣民たちの不知がつくり出す以上の苦しみを与えるとしたならば、臣民たちは何のうるところがあろう?もし、この安寧そのものが臣民たちの悲惨の一つであるならば、彼らは何のうるところがあるだろう?ひとは牢獄の中でも安らかに暮らせる。だからといって、牢獄が快適だと言えるか?」。
 沖縄の人たちが、オスプレー配備に反対する「建白書」を提出したにもかかわらず、それが無視され、辺野古新基地を始めてしまったことに対する意見書で「民主主義をじゅうりんし、沖縄県民の尊厳を踏みにじるものであり到底容認できるものではない」と述べています。ここで述べられている「尊厳を踏みにじる」は、ルソーが「社会契約論/第4章、ドレイ状態について」で書いている、「安寧」であったり「牢獄の中」のそのままであるように読めます。当然ルソーは、彼の社会契約の根底をくつがえす、たとえば二重基準のようなものを容赦なくあばき、「平等」を「すべての社会組織の基礎として」論述します。「わたしは、すべての社会組織の基礎として役立つにちがいないことを一言して、本章および本編(第一編、ここでは、いかにして人間が自然状態から社会状態に移るか、また社会契約論の本質的 条件はいかなるものであるか、が論究される/第九章、土地支配について)をおわろう。それは、この基本契約は、自然的平等を破壊するのではなくて、逆に、必然的に人間の間にありうる肉体的不平等のようなもののかわりに、道徳上および法律上の平等をおきかえるものだということ、また人間は体力や、精神については不平等でありえるが、約束によって、また権利によってすべて平等になるということである」。
 こうして論究され、「平等」を力ずくで壊すものに、激しい存在をかけた言葉で迫るのが、たとえば辺野古新基地建設の現場で闘う沖縄の人たちであるように思えます。 height=1
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