だからわたしはいう、主権とは一般意志の行使にほかならぬのだから、これを譲りわたすことは決してできない、と。またいう、主権者とは集合的存在にほかならないから、それはこの集合的存在そのものによってしか代表されえない、と。権力は譲りわたすこともできよう、しかし、意志はそうはできない。
(「社会契約論」ルソ-)
ヨハネによる福音書11章1~34節は、病気だったラザロが死んで葬られ、そのラザロが生き返ったこと、そしてそのまとめが35~38節です。病気の兄弟ラザロのことを気遣うマリヤとマルタ、そして死んだラザロのことで繰り広げられる状況や、居合わせたイエスとの会話など、のっぴきならない様子を、ヨハネによる福音書は丁寧に、ある意味でリアルに描いているように読めます。
その時の、イエス及びその働きについて、取り巻くユダヤ人の評価は分かれていました。
「彼は悪霊に取りつかれ、気が狂っている。どうしてあなたがたは、その言うことを聞くのか」「それは悪霊に取りつかれた者のようではない。悪霊は盲人の目をあけることができようか」(10章20、21節)と評価され、「わたしと父とは一つである」と言って憚らないイエスを、ユダヤ人たちは殺そうとします。「そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた」(31節)ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」(33節)と、石で殺されようとしているのに、イエスはちっともひるまないのです。「父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい」(36、37節)。
イエスは、捕らえようとした人たちの手を一旦はのがれます。そして、あらためてその「ユダヤへ行こう」と言います。「先生、ユダヤ人らが、さきほどもあなたを石で殺そうとしていましたのに、またそこに行かれるのですか」と、弟子たちは引き止めます(11章7,8節)。
それに対する、イエスの反論からは、自分が生きていることの意味と意志が示されているように読めます。「・・・昼間あるけば、人はつまずくことはない。この世の光を見ているからである。しかし、夜あるけば、つまずく。その人のうちに、光がないからである」(11章9,10節)。この場合の「意味、意志」は、そのような生き方の解説のようなものではなく、生きた人間の生きた事実として、ヨハネ福音書は伝えているように読めます。
マリヤとマルタにとって、兄弟ラザロの病気、そして死は大きな傷手でした。傷手でしたが、その現実と向い合うことにおいて、自分を失うということはありませんでした。それらのことが、たとえば11章21~27節のマルタとイエスのやりとりから窺い知ることができます。「マルタはイエスに言った、『主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています』。イエスはマルタに言われた、『あなたの兄弟はよみがえるであろう』。マルタは言った、『終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています』。イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか』。マルタはイエスに言った、『主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております』」。ラザロが死んで、大ぜいのユダヤ人が、その兄弟のことでマルタとマリアを慰めにやってきます。もちろん、兄弟ラザロの死は、マリヤとマルタにとって、大きな傷手でした。しかし、マルタは、そんな傷手を生きながら、イエスと向かいあって「存じています」「信じています」を繰り返します。ユダヤ人たちは「慰めよう」とやってきます。姉妹の一人マリヤもイエスとマルタが出会っているところに向い、イエスと出会い、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と言って泣きます。イエスは、そんな様子に激しく感動し、また心を騒がせ、そして涙を流します。これはそこにいたみんなに合わせ同じように泣いたということではないはずです。マルタの場合も、マリアの場合も、「存じています」「信じています」と、その事実を引き受けて生きている人たちで、この場合の「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と、ゆるがずに一貫している生き方です。たぶんそれがイエスを動かし「涙を流す」になったに違いないのです。
来年で65歳を迎える志智桂子さんが、「私は重度脳性マヒ者だ!!」と、遊び雲通信“こんちくしょう”2016年8月157号に書いています。重度脳性マヒ者が、「元気で65歳を迎える」にあたり、「介護保険優先原則」で生きて行くことの難しさについてです。「介護保険は保険制度なので、みんな応分の負担をすることになります。制度維持の為必要ですので、ご理解下さい。なお、介護保険を申請したい場合、障害福祉サービスを利用できなくなることもあります。」(兵庫県リーフレットQ&Aより抜粋)。
以下、志智桂子さん。
「これはどういうことなのか?元気でお金があれば、介護保険の枠で生きていけるが、そうでない重度の人はどうなるのか。放置されているのか?施設に入っているのか?認知症の場合、記憶の森を彷徨っているのか?みんなどこにいるのか?生きるとは死ぬまで、人と係わり続けることだと私は思っている。だからこそ、年代を問われたりで、行き場を求める。生きる仕組みを作る。共に生きることの意味を、もう一度自分自身に問い返していかないといけない時期にきている」。
ヨハネによる福音書のラザロと姉妹たちの物語のまとめは「マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。しかし、そのうちの数人がパリサイ人たちのところに行って、イエスのされたことを告げた」となっています。
この2者のうち「そのうちの数人が」は、少なからずヨハネによる福音書の「サバ」を読んだ話しだとしても「信じた」と「告げた」は、その立ち位置において、中でも人として生きる意志ということでは、大いに違っています。自分の意志を生きている人と、傍観者くらいの違いになります。志智桂子さんは、・・・生きるとは、死ぬまで、人と係わり続ける事だと私は思っている。だからこそ、年代を問わないで、「行き場を求める。生きる仕組みを作る」意志で生きる人なのです。
それは、「告げる」人たちではなく、「イエスを信じる」人たちとの生き方に限りなく近いようにも思えます。
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