前知事が公約をくつがえし承認した、辺野古新基地建設(名護市、大浦湾を埋め立て建設)を、その基地建設反対を公約して当選した翁長雄志現知事が取り消したのを、国が違法として知事を訴えた「辺野古違法確認訴訟」で、福岡高裁那覇支部(多見谷寿郎裁判長)は、「承認取り消しは違法」と、国の主張を全面的に認める判決を下しました。「辺野古違法確認訴訟の判決骨子」は以下の7項目です。
ここで何よりの問題は、知事がその権限で承認した決定を、そのこと(建設を認めない)を公約して当選した知事がその権限で承認を取り消したことが「違法」だとされたことです。別掲の「判決骨子」を見る限り、判決は何一つ「違法」の事実も根拠も示してはいません。以下、「判決骨子」について「批評」します。
「沖縄に(安全保障上)の地理的優位性が認められるとの国の説明は不合理ではない」
言われている「地理的優位性」そのものが、現実に米軍基地が置かれてしまっている以上の根拠は何一つないし、たとえもし「地理的優位性」が立証されてとしても、それを沖縄の人たちが不利益をこうむりながら受け入れなければならない理由は示されていないし、そもそも、そんなことを「法的」に示すことは難しい。
「在沖米軍の中で海兵隊は重要な役割があり、沖縄本島からの移転は機動力・即応力が失われるため採用できない。県外移転できない国の判断は戦後70年の経過や現在の世界、地域情勢から合理性があり、尊重すべき」
裁判というものの基本の基本は、社会の約束として法を語り、法に基づいて判断するところにあります。なのに、この判決は、法に基づいた判断ではなく、言うところの国・政府の判断を優先する、結果的には政治判決(断)になっています。沖縄の人たちは、もちろん日本国憲法・法律に基づき一人一人の人間として生きています。その一人一人の総意で、そして当然のこととして一方的な「地理的優位性」を判断・押し付けられることを拒んでいるとしたら、この判決は法として何一つ合理性も、法として尊重すべきことを語ってはいないことになります。
「日本が合意した普天間の騒音規制措置は「運用上必要な場合を除き」などの限定が付されているため、合意が順守されていないとの確認は困難」
判決の言う「限定」「合意」「順守」は、それを言う場合の何よりの前提である、その影響を受ける人たちのことが欠落しています。単なる限定、合意、順守ではなく、それらのことが影響を受ける人たちの了解なしに社会は成り立ち得ないという、社会の最低の約束がないがしろにされています。
「これらの理由から、埋め立て事業の必要性が極めて高く、環境悪化などの不利益を考慮しても(前知事の埋め立て承認は)不合理と認められない」
どんなに「事業の必要性」があり、そして「極めて」それが「高い」としても、そのことによる不利益を沖縄の人たちが受け入れなければならない理由を、この判決は示し得ていません。それを示すような憲法や法律の条文など、どこにも存在しないからです。もちろん、知事の権限で認めたものを、知事の権限で取り消したという、単純な事実をくつがえす法的な根拠を判決は示すことができません。
「新施設の規模は普天間の半分以下の面積であり、新施設建設が自治権侵害として憲法92条に反するといえない」
自治権に限らず、権利というものは、より強いものがそのことの意味を理解し守らない限り、ただの空文になってしまいます。それがおびやかされていると沖縄の人たちが言っているのですから、あらゆる意味で、そのことに耳を傾けることが法と社会の常識であり前提です。更に、「新施設の規模は普天間の半分以下の面積」は、面積はともかく、新施設は、あらゆる意味での基地機能を高めた新基地であることを、沖縄の人たちは知っています。
「県の『是正の指示が違法だ』との主張は、前提とする地方自治法の解釈が失当だ」
権限のある地方自治が承認し、権限のある地方自治が取り消した事実を、裁判にうったえることが、そもそも社会が約束で成り立っていることの否定であり、違法以外のなにものでもありません。
「(国と県が)対等・協力という地方自治法の精神で解決策を合意することが望ましいが、和解成立から5か月が経過しても糸口すら見いだせないため、その可能性を肯定するのは困難」
たとえば地方自治法もまた、その内容をたとえば国と県が約束したものであってみれば、お互い約束を守るのは当然のことです。この両者に対立があって、裁判所が和解をすすめたのであれば、裁判所の役割は可能性を肯定し続けるのが、法によって立法によって判断する裁判の役割です。
9月16日の判決は、以上のように、法によって判断する裁判所が、そのすべてにおいて、国・政治による決定を追認する「政治判決(断)」であると言わざるを得ません。
もし国・政治が、そこで生きる人たちの意志(沖縄の人たちの多数の意志)を、踏みにじり、裁判が法ではなく、国・政治の政治的決定を追認するとすれば、沖縄の人たちに残された道は、辺野古・高江に足を運びそこに集まり、強い意志を示し続けることになります。沖縄の人たちはそれを選び、辺野古・高江に一人でもたくさんの人たちが集まるのを呼びかけています。
「あなたの行動が“沖縄の民意”を支える」(沖縄パンフレット作成委員会、・辺野古ゲート前テント村、海上行動・高江連絡会(ヘリパッド建設に反対する現地行動連絡会)・伊江島「わびあいの里」・普天間ゲート前抗議行動(野嵩・大山)・嘉手納ゲート前抗議行動)
「オール沖縄 Peace Song」(株式会社音楽センター)
福島県の県民健康調査甲状腺検査によれば、1巡目の2011~2013年の約37万人で115人(確定101人、疑い14人)、2巡目の2014、2015年の約38万人で59人(確定34人、疑い25人)の甲状腺がんが発見されています。
この甲状腺検査を継続するかどうかが議論されており、「検査の枠組みの検討を続ける」というのが、現時点での検査委員会の判断です。東電福島の事故以前は、100人に一人と言われていた甲状腺がんが、福島の子どもたちに大量に発見されていることについて、それは「過剰診断」の結果であるとし、事故との因果関係は疑問視、ないしは否定されてきました。そんな経緯の中で議論されてきたのが、検査の継続の可否で、その判断を先送りしたというのが、検査委員会の今回の判断であり、それにはいくつかの動きが背景としてあります。
「検査の実施体制を巡る論議の背景にはチェルノブイリ原発事故後の状況を顧み、体制を維持すべきとの見解の一方で、一部の医療関係者から、必ずしも治療の必要がないがんを見つける『過剰診断』につながっているのではないかとの懸念の声がある」、「県小児科医会は8月、原発事故から5年がたち、『がん』または『がんの疑い』とされる子どもが複数確認され点に触れ、県民が不安を感じていると指摘、国内外での風評につながる可能性もあることから事業の見直しを含む再検討を県に求めた」「甲状腺がんと診断された患者の家族でつくる『3.11甲状腺がん家族の会』は同月、対象年齢の拡大や受診しやすい環境の整備などを県に要望した」(9月15日、福島民報)。
ここで、大いに気になるのは、県民健康調査を甲状腺検査継続の可否を問題にしているのは県民調査委員会の構成員たちであることです。この人たちは、あたかも自分たちが、この場合の検査の可否を決めてしまえるように判断していますが、そこの何かが根本的に誤っています。少なくとも福島では、他の都道府県などと比べる場合、事実としておびただしい数の子どもの甲状腺がん患者が発見されています。なすべきなのは、この事実に対する、可能な限りの対応・対策であるはずです。その事実が、東電福島の事故との因果関係の問題にすりかえられています。どこで、なぜ、こんなすりかえ、ないしは逆転が起こってしまっているのか。たとえばこの場合の調査委員会は、一人一人の甲状腺がんの子どもや家族と向かい合うより前に、福島で多発する子ども甲状腺がん原発事故との因果関係の方に関心が向いてしまっていることです。場合によってはそのことで得られる「結果」「結論」を元に、例えば検査の継続の可否を決めてしまえると判断しています。
福島が東電福島の事故で放射能汚染にさらされ続け、かつ子どもたちの甲状腺がんが明らかに多発している時、それを怖がり、そのことの不安の中で生きざるを得ないのは、極めて自然なことです。なのに、県民健康調査委員会のようなものが設けられ、ひたすら因果関係をもとに、「怖がること」「不安」の払拭を計ろうとするのは、そこで生きる一人一人の意志を踏みにじることでありかつ、越権行為です。
そんなことの結果、福島で起こっていて、福島で語られる言葉のいくつかが「不安を押し殺して生きていませんか」「怖がっていい 泣いていい 起こっていい いつか、さいごに笑えるように」だったりします。それは一番に身近に子どもと生きるお母さんやお父さんの自然で素直な思いです。そんな思いをまとめた2冊を紹介します。
「怖がっていい 泣いていい 怒っていい いつか、さいごに笑えるように」
(井戸謙一、「子ども脱被ばく裁判」の弁護士が、ふくしまの親たちに送るメッセージ、ママレポ出版局)
「こどけん通信vol.1」
(荒木田岳他、子どもたちの健康と未来を守るプロジェクト)
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