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2005年10月02週
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 愛国や愛国心が全くなくって生きているとは思っていません。と言うか、恥ずかしくないくらいの国の恥ずかしくないくらいの国民でありたいと願っています。あるいは、少しぐらいは誇るに足る国の少しぐらいは誇るに足る国民でありたいと思っています。
 聖書が伝える物語の中でも、国の存亡が国民に強いる厳しい現実のことに目が注がれています。「・・・貧しく乏しい雇人は、同胞であれ、またあなたの国で、町のうちに寄留している他国人であれ、それを虐待してはならない・・・」(申命記24章14節)。「・・・寄留の他国人または孤児のさばきを曲げてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはかつてエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主がそこからあなたを救い出されたことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである。」(同、17,18節)。このようにして例えば「寄留の他国人」との向かい合う態度が、神・主として恥ずかしくないし誇るに足ると、聖書の物語は伝えているように読めます。
 いわゆる“在外被爆者訴訟”で「・・・長崎で被爆後、韓国へ帰国した被爆者や遺族が被爆者援護法に基づいて行った健康管理手当や葬祭料の申請を長崎市が却下したのは違法とした福岡高裁判決について、尾辻原生労働相は7日の会見で、国として長崎市に上告を求めないことを正式に表明、同市の伊藤一市長も『上告しない』と述べた」と報道されています(2005年10月7日朝日新聞)。“強制連行”された結果の戦争の惨禍を生き延びた韓国人被爆者のことを放置し続けて、訴えられた訴訟の結果を受けとめることに、長い長い時間を費やした果ての決定です。恥ずかしいなりに、少しは恥ずかしくない決定と言えなくはありません。恥ずかしくない国、少しぐらいは誇るに足る国とういものは、「・・・一方で、手当を受け取るには、被爆者健康手帳を持っていることが前提。厚労省は手帳の取得については、被爆当時の聞き取りなど詳しい調査が必要で、海外での手続きはできないとの立場を崩していない」などのことを固持することがあってはならないのです。
 愛国、愛国心などのことが公然と口にされるようになってきました。2005年10月7日朝日新聞の、“存外被爆者訴訟”について伝える記事の隣りの記事です。「・・・自民党新憲法起草案のうち、前文原案の骨格が7日、明らかになった。『国を愛する国民の努力によって国の独立を守る』との文言で、愛国心や自主防衛の考えをにじませた」。
 愛国ないしは愛国心という、言わばあたりまえのことがこの国で口にしにくくなったのには理由があります。公然と口にされるようになった“新憲法”の“前文原案”で葬り去ろうとしている、日本国憲法前文が「・・・そもそも国政は、国民の厳粛な依託によるものであって、その権威は国民に由来し・・・」と言ったりするのは、愛国や愛国心がその時の国民(そして隣国の人たちに)に強いることになった悲惨な戦争の惨禍を念頭に置いてのことです。「・・・この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであって、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によって確定されたのである。即ち、日本国民は、みずから進んで戦争を放棄し・・・」(日本国憲法公布記念式典の勅語)などと言ったりするのは、愛国や愛国心が嵐のように吹き荒れ、元もと無いに等しかった国民の主権が踏みにじられた結果、やはり戦争の惨禍を強いられたことを反省することからしか、国家“再建”はないと考えたからです。愛国や愛国心が強いたことの結果の悲惨な戦争の惨禍が、この国ではそれを口にしにくくしてきたのです。なのに、言われ始めている“新憲法草案”では、“・・・自由に表明された国民の総意”“・・・権威は国民に由来し”などの国民(主権)を吹っ飛ばす、ないしは無視して、国、愛国心が話題の中心になっています。

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