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2016年10月02週
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8月2日からの子どもたちの沖縄キャンプの時の琉球新報に紹介されていたガジュマルの絵「戦場(いくさば)の記憶」が、礼拝堂の壁にかけられることになりました。「戦場(いくさば)の記憶」は、名古屋市守山区在住の都築禮子さんの作品です。絵のモデルになったのは、対馬丸記念館のガジュマルです。都築禮子さんがこの絵を「戦場(いくさば)の記憶」としたことについての短いコメントが、新聞に紹介されていました。「…昨年(2014年)5月17日に那覇市で開催された新基地反対県民大会に地域の仲間と参加し、対馬丸記念館を訪ねた。『展示をい終えて庭に出ると、ねじり合ったような姿があった。子どもたちの生きていたかったという思いが天に昇っていくように見えた』と話す」「120号(194cm×130cm)に初めて挑戦。麻袋と漆喰を紙粘土で固め、そこに油絵具を乗せ、ガジュマルの質感を表現し、背景に沖縄の新聞2紙の記事を貼り合わせた。昨年、辺野古を訪ねた時の『美しい海に人間を殺す基地を造るのは絶対に許せない』という思いも込めた」。
 「子どもたちの生きていたかったという思い」1944年8月22日に政府命令で沖縄から疎開する子どもたちなどを乗せて、都築禮子さんがコメントする対馬丸は、米潜水艦の魚雷で爆発・沈没、子どもたちを中心に1476人が死亡することになりました。沖縄が地上戦の戦場になるとの軍の判断で、政府は約10万人の疎開を計画、しかし、進まない疎開に県は「沖縄県学童集団疎開準備要綱」を発令、学校単位での疎開体制を取ります。多数の軍隊が沖縄に集結し、足手まといになる児童を県外に移住させることは急務だったからです。残った14、15歳以上の子どもたちを含む沖縄の人たちのおよそ4分の1(20万人)が、地上戦で命を失うことになりました。
 都築禮子さんの「戦場(いくさば)の記憶」の、「生きたかったという思い」は、そんな沖縄の戦争で亡くなった人たち全ての想いであり、生き残った沖縄の人たち全ての想いであるはずです。対馬丸記念館のガジュマルは、ガジュマルに出逢って見つめる人たちの心を喚起せずにはおかなかったのです。
 その沖縄の父親の時代のことであった戦場の記憶を天皇が明仁皇太子の時に、文書による談話で残しています。
 「…過去に、多くの苦難を経験しながらも、常に平和を願望し続けてきた沖縄が、さきの大戦で我が国では唯一の住民を巻き込む戦場と化し、幾多の悲惨な犠牲を払い今日に至ったことは、忘れることのできない大きな不幸であり、犠牲者や遺族の方々のことを想う時、悲しみと痛恨の思いに浸されます。払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によって贖えるものでなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」(1975年7月)。更に「戦場(いくさば)の記憶」の対馬丸のことでも、明仁天皇・美智子皇后は、それを自分たちの記憶の言葉として書き残してもいます。

疎開児の 命いだきて 沈みなる
船深海に 見出だされけり  (1997年 明仁)
我もまた 近き齢(よはひ)に ありしかば
沁(し)みて悲しく 対馬丸思ふ(2014年 美智子)

 明仁天皇にとって、父祖の時代のことであった「戦場の記憶」は、戦場を広く海外にまで及ばせた結果、そのことでも繰り返し言及しています。「先の大戦では非常に多くの日本人が亡くなりました。全体の戦没者310万人の中で、外地で亡くなった人は240万に達しています。(略)昭和19年6月15日、米軍がサイパン島へ上陸してきた時には、日本軍は既に制海権、制空権を失っており、多数の在留邦人は引き揚げられない状態になっていました。このような状況下で戦闘が行われたため、7月7日に日本軍が玉砕するまでに、陸海軍の4万3千人と在留邦人の1万2千人の命が失われました(略)この戦闘では米軍にも3500人近い戦死者があり、また900人を超え、サイパン島民が戦闘の犠牲になりました。またこの戦闘では朝鮮半島の人々も命を落としています」(2005年)。父祖の時代の戦争で、沖縄島が、島の人たちの4人に1人、20万人が犠牲になる「戦場(いくさば)の記憶」となって終わった1995年6月23日の後、7月21日のポツダム宣言が無条件降伏を突き付けた後の、8月6日広島、8月9日長崎に原子爆弾が投下されます。父親の時代の戦争が、更に別の「戦場の記憶」を作り出してしまった事実とも、天皇明仁は向かい合い続けることになります。「…1945年度、広島に長崎に落とされた2発の原子爆弾により、ほぼ20万人がその年の内に亡くなり、その後も多くの人々が、放射線障害によって苦しみの内に亡くなっていきました」(2007年)
 父祖の時代の「戦場の記憶」を思いとして引き受け、「戦争をしない国」を語り続け、広島・長崎の「放射線障害によって、苦しみの内に亡くなっていった」人たちへの視点は、2011年3月11日の東電福島の事故の後を生きる人たちには「事故の記憶」を2012年、2013年、2014年、2015年の新年の感想の中で「放射能汚染により、かつて住んだ土地に戻れずにいる人々」として語り続けます。何を記憶すべきかを少なくとも自らに問うて、初めて語り、かつ書き残された「記憶たち」、中でも「戦場(いくさば)の記憶」なのです。(以上、天皇明仁の「記憶たち」は、矢部宏治「戦争をしない国」より)。
 安倍首相の所信表明演説に欠けているのは、父祖の代から背負っているはずの「戦場の記憶」です。「沖縄の基地負担軽減に全力を尽くします。と言いながら、そこには背負っているはずの「戦場の記憶」は何一つ顧みられることはありません。「日本の外交・安全保障の基軸は日米同盟。これは不変の原則です。日米の絆を一層強化し、『希望の同盟』として世界の 課題に共に立ち向かってまいります。その強い信頼関係の下、抑止力を維持しながら、沖縄の基地負担軽減に全力を尽くします。北部訓練場、4千ヘクタールの返還を20年超しで実現させます。沖縄県内の米軍施設の約2割、本土復帰後、最大の返還であります。0.2ヘクタールのヘリパッドを既存の訓練場内に移設することで、その実現が可能となります」。沖縄の米軍基地は、沖縄が太平洋戦争の地上戦の戦場になり、米国・軍により占領政策の結果の基地であり、北部訓練場も、その結果沖縄の人たちの同意を得ることなく、米軍に提供されました。「日本の外交・安全保障の基軸は日米同盟。これは不変の原則」「日米の絆を一層強化」「その強い信頼関係の下、抑止力を維持」などとする所信表明は、それに続けて沖縄の基地に言及します。明らかなのは、「日本の外交・安全保障の基軸は、日米同盟」以下、この同盟で具体的に言及されているのは、ほぼ全ての沖縄の米軍基地です。所信表明では触られていませんが、「基軸」「日本同盟」「希望の同盟」「不変の原則」を体現する米軍基地のおよそ70%が沖縄に置かれています。沖縄が太平洋戦争の日米の地上戦の戦場になった結果です。他のどこよりも沖縄が、その「戦場の記憶」を背負わされた結果です。そんな基本の部分には何一つ触れないで「北部訓練場は4千ヘクタールの返還」を「米軍施設の約2割」であると、あたかもそれが基地負担の軽減であるかのように、所信表明では言及します。島の人たちのものであった山原(やんばる)の森を、戦争の後で国が奪い国有林とし、米軍に訓練場として提供しましたが、そこはその時も今も沖縄の人たちが山原と呼ぶ森です。奪っておいて、それを返す代償として建設されようとしているのが、ヘリパッドです。これもすべて、基軸、同盟、不変の原則、絆、強化、そして「希望の同盟」として日米同盟の為なのだと言ってはばかりません。だったら基地が、沖縄だけに集中する理由はどこにもないはずです。
 沖縄の人たちは基地の無い島を自ずから切り拓くことを切に願ってきました。にもかかわらず、日米同盟を基軸とし、それを希望の同盟とし、基地の大半を沖縄に押し付け「沖縄の未来を切り拓く」とするのが、所信表明です。そこで語られる「日本の外交・安全保障〜世界の諸課題に立ち向かってまいります」は、決して世界を語るに値しないことを、自ずから語っていることになります。 height=1
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