美智子皇后が、82歳の誕生日をむかえるにあたり、記者たちに回答した中に、視覚障害者の線路転落にふれた部分がありました。「最近心にかかることの一つに、視覚障害者の駅での転落事故が引き続き多いことがあります。目が不自由なため、過去に駅から転落した人の統計は信じられぬ程多く、今年8月にも残念な事故死が報じられました」、そして「…ホーム・ドアの設置が各駅に及ぶことが理想ですが」とありますが、「ホーム・ドアの有無のみに帰せず」「様々な観点から考察し、これ以上悲しい事例が増えぬよう、皆して努力していく」ことを自分も含め、努力目標にしようということを呼びかけています。その「悲しい」と思うことから始めようは、視覚障害者がそこで一緒に行きる社会が実現してほしいとの願いが込められています。皇后が働きをいわゆる国事行為に限定しないのは、人間として悲しみかつ喜び、時には謝罪を口にし、人間の傍に寄り添って生きる人間であろうとしているからです。
相模原市で起こった、「入所施設障害者殺傷事件」を受け、雑誌の編集委員会の名前で声明が出されています。声明は「相模原市入所施設障害者殺傷事件を受けて――問われるべきは、施設収容主義と私たちの社会に蔓延する優生思想と不寛容/2016年8月20日(事件から1か月を経て)、福祉労働編集委員会」とあり、障害者たちは「三度『殺された』」と指摘します。「…特定の人を収容するために用意された入所施設という装置こそが、不本意のままそこに長期間居ざるを得ない人たちを『不幸な存在』にしていったのではないでしょうか。入所施設を未だに必要としている私たちの社会の無自覚なままの排除が容疑者の犯行を後押した、と思えてなりません。亡くなられた方々は、施設で暮らさざるを得なかったこと、事件そのもの、そして亡くなられた後も個人としての存在を残せなかったことによって三度『殺された』と、敢えて指摘させていただきます」。「亡くなられた後も個人としての存在を残せなかった」は、多くの場合の事件で、報道機関などが発表を競う被害者の名前が、この事件の場合一切発表されなかったことを指します。どうして、殺された人たちの名前が発表されなかったのか。もし、殺された人たちが「そこで一緒に生きる社会」の仲間の一人であったとすれば、名前が明らかになることに、何一つ問題はなかったはずです。おそらく、声明が指摘するように「特定の人を収容するために用意された入所施設に長期間居ざるを得ない」その人たちには、そうではない人たちと「一緒に生きる」社会の居場所がありませんでしたし、「一緒に生きて」名前を呼び合ったり、存在を共有し合ったりすることも決定的に足りませんでしたから、名前が明らかにしないことが選ばれたのです。そうして個人としての存在も残せなかったという意味で「三度『殺された』」と、声明は指摘します。
それは今、この国が「三度『殺された』」あるいは「三度『殺す』」ことを敢えてする国であることを意味するのでしょうが、今、沖縄で起こっていることも、つながっているように思えます。1879年に琉球が沖縄県になった時、国頭村から東村にまたがる一帯が沖縄の人たちから取り上げられて官有地になりました。沖縄の人たちの4人に1人、20万人を超える人たちが「殺された」沖縄戦の後の米国・米軍に、そこは北部訓練場として提供されました。そこは米海兵隊の実践訓練の現場になっています。たとえばアフガニスタン、イラクのアメリカの戦争で「One Shot, One Kill」と容赦のない戦場の最先端を切り開いて行く海兵隊の訓練場なのです。辺野古新基地、高江新ヘリパッドを沖縄に作ることで、沖縄の人たちと沖縄が直接戦争の現場につながることは明らかであり、だから沖縄の人たちは新たな米軍基地を沖縄に作ることは許せないと思っています。住民の4人に1人、20万人が「殺された」沖縄の人たちが、認めることも許すこともできないのが戦争です。戦争を憎み平和を志向してやまない「沖縄のこころと誇り」が、沖縄の新しい米軍基地を、何としてでも許せないのです。
昨年2月から、沖縄辺野古新基地反対の座り込みに参加することになった現場で、集まってきた「初心者」に、解りやすく事がらを伝え、一人一人を自然に座り込みの仲間に加えていく人たちに、少なからず驚きました。
3回目くらいの参加で解ったそのうちの一人の名前が山城博治さんでした。全く単独参加で、黙って加わり、黙って帰ってきましたから、現場の事情も、人のことも解るまで時間がかかってしまったのです。4月だったか、午前中の座り込みが一段落する昼頃、その山城博治さんから「入院することになった」と告げられ、多くの人たちはびっくりしながら現場に帰って来ることを約束し合って見送りました。その山城博治さんが、抗がん剤でうすくなった頭で、現場に戻ると、やっぱり現場の雰囲気は変わります。辺野古の現場が、沖縄を含め非暴力の大衆の集まる場になってきたのは山城博治さんもその一人である、「沖縄のこころと誇り」を持った人たちが担ってきたからです。辺野古の現場に、警視庁の機動隊が約200人加わって、圧倒的な力を見せつける場合も変わらず、やられてもやられても、例えば、山城博治さんの口からは「非暴力」「大衆行動」が語られ続けました。そして、やられっぱなしの非暴力の大衆が、もう一度辺野古の現場に戻ってくるのは、辺野古に新しい基地を作らせないという強い意志と言葉に共感し、非暴力の大衆行動の自らもその一人の担い手であることを、心底、体験する現場だからです。その現場には山城博治さんの呼びかけで、必ず誰かが歌い踊り、歌と踊りが広がります。その歌と踊りに、やられっぱなしの人たちの顔が輝き、もう一度辺野古に足を運び、誰かをそこに誘う原動力になってきました。
2016年2月、宜野湾市長選挙の時、応援する市民グループが集まる場所に立ち寄った山城博治さんは、辺野古の現場の時とは、全く違った様子に見えました。厳しく激しく迫る山城博治さんではなく、無口でおだやかな人であるのに驚きました。
東村高江で地元の人たちが頑張って止まっていたヘリパッド工事が、参院選の直後に強行されることになり、遠い高江にも反対する人たちの力が注がれることになりました。高江に向かうのは「他人に痛めつけられても寝ることができるが、他人を痛めつけては寝ることができない」「沖縄のこころと誇り」を生きる沖縄の人たちです。遠くても、少数の人たちであったとしても、「沖縄のこころと誇り」を生きる沖縄の人たちは高江に向かうのです。
その山城博治さんが高江で「器物損壊の疑い」で逮捕され、更に「公務執行妨害」「傷害」で再逮捕されました。
山城博治さんが、辺野古でも高江でも、集まってきた人たちに訴え続けてきたのが「非暴力」の「大衆行動」です。けれども、その非暴力をぎりぎりまで激しく厳しく身をもって行動する山城博治さんは、どんな時も決してひるむことがありません。9月に、高江でKさんが逮捕された時の、名護警察での抗議行動の山城博治さんはそれは激しいものでした。Kさんの即時釈放と、名護警察署長の面会を求め、1.5メートルの警察署の塀を乗り越える誰よりも先頭にいたのは山城博治さんでした。許せないことは決して許さない熱血の人なのです。しかし、超えた塀の内側で、精根尽きて座り込まざるを得ませんでした。まだまだ、重い病気の予後を生きる山城博治さんの、逮捕・再逮捕による拘束が続いています。
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