沖縄に行った時、新聞(琉球新報)で紹介されていた「東日本大震災/何も終わらない福島の5年/飯舘・南相馬から」(寺島英弥・明石書店)以下、「福島の5年」を読んでいます。福島・相馬地方が故郷である寺島英弥さんは、河北新報が職場で東北の震災の地元で生きてきた人として、震災後を生きる人たちを「東日本大震災希望の種をまく人々」「海よ里よ、いつの日か還る」「東日本大震災4年目の記録/風評の厚き壁を前に」(いずれも明石書店)として記録し伝えてきました。「福島の5年」で取り上げられている飯舘村は、2017年3月で村の避難が解除されます。5年前、情報が遅れたことから、避難(全村)が大幅に遅れてしまった地方の一つが、飯舘村です。
2011年5月に飯舘を通った時、全村避難を控え、村役場などは平常の業務が続く中で避難の準備が進められていました。東電福島の事故の直後、第一原発周辺から北西の飯舘村の方向に向かってたくさんの人たちが避難していました。そこを、幹線道路の一つが走っていたからです。そして、事故の爆発で大量の放射性物質が放出され、それが風で北西方向に運ばれ、飯舘村周辺で雨と冬で降り注ぐことになり、いずれの情報も、村の人たちや避難して飯舘村にたどり着いた人たちにも知らされませんでした。それが、解っていたことが後になって明らかになりました。明らかに、情報・事実を隠していたのですが、「混乱を恐れた」ということで片付けられました。飯舘は人の住めない村になりました。
避難指示解除準備区域 1~20mSv/年
居住制限区域 20~50mSv/年
帰還困難区域 50mSv/年以上
こうして、区分された東電福島の事故で避難している人たちの元の住居への帰還は、除染して線量が1mSv/年以下になることが前提でした。現在は除染の終了で、避難が解除されるように方針が変わり、飯舘村の避難もその方針の下で解除されることになっています。
「福島の5年」は、そんな飯舘・南相馬を訪ね、出会った人たちの記録です。
飯舘は、避難解除になりますが、いくつかの点で村の人たちが元の住居に戻って生活する条件を欠いています。たとえば、避難解除とは言うものの、戻ったとしてもそこにあるのは「復興拠点」だけで、飯舘の人たちの生活を取り戻すための条件の多くを欠いています。「復興計画案はこう概要を説明しています。復興拠点は、村の中心部を東西に貫く福島県道12号原町川俣線の深谷地区に、道の駅「までい館」(物産の展示・販売と村の情報発信)を中心に、交流ホールとイベント広場、コンビニエンスストア(ミニスーパーと弁当宅配の機能も)花卉(かき)の直売所、集会所や復興住宅、太陽光発電施設、公園などを併設し、村民が働ける場にもするという計画です」「道の駅は、政府が決めた避難指示解除の時期にタイミングを合わせ、2017年3月までに完成を予定しています」(「福島の5年」)。手元(教会集会室)に「富山和子がつくる―日本の米カレンダー(旧暦入り)/水田は文化と環境を守る」(発行:水の文化研究所)のカレンダーが、めくられないでそのまま壁にかかっています。めくられない2011年のカレンダーの表紙の写真は飯舘村の山野で牛たちが散歩しており、「までいの村、自立の村、福島県飯舘村。人と土地と家畜とは一体の筈だった。2011年5月15日、全村計画的避難を開始」と書かれています。飯舘村が『までい』と言ってきたのは、その言葉の「まじわり」を村の人たちが、村の基本として実践し、かつ生きてきたからです。そうだとすれば、幹線道路と復興拠点だけが整備される飯舘村は飯舘村として依って立つ事実と歴史を否定することになります。「若い人たちが応援してくれた。住民が皆、参加して話し合い協力し合い、手間暇をかけて手作りしたんだ。飯舘の『までい』な村づくりは、地域が担ってきた」「村が立派な拠点を造っても施設に関わって生活できる人はいいが『箱もの』では後々、村財政の負担になるだけではないか」「隣の人が具合を悪くしたら、助けに行く。畑で採れた野菜のおすそ分けをする。我々の地域が大事にしてきたつながりこそが、最高の福祉であり共助だ。それを繋ぐ糸が切れてしまったら、どうなるか」(「福島の5年」)。幹線道路と復興拠点の復興が、東電福島の事故の前に飯舘に成り立たせてきたものの最も基本を失ったままだとすれば、飯舘村の存続は難しくなります。
「福島の5年」は、そんな飯舘の現在を、そこで生きてきた人たちと出会って記録します。
「南相馬市小高区では、閉ざされたままの教育施設の復旧に向けた動きが本格化しています。「小高区内の教育施設は現在、幼稚園は休園し、小学校は4校(小高、福浦、金房、鳩原)を1カ所に集約して同市鹿島区内の鹿島中学校敷地内の仮設校舎で、小高中学校は鹿島小学校敷地内の仮設校舎で運営している。小学校は4校で92人、中学校は89人が在籍している。7月の避難指示解除を受け4月1日から、小学校は4校同時のまま、小高区の小高小学校でそれぞれ再開する予定」「現在の在校生が小高区の校舎に戻るのには、多くの問題が生じる。第一に、在校生の多くが小高区の校舎から20km近く離れた鹿島区内に居住している」「第二に、学校と子どもを支えるはずの地域コミュニケーションの復興が完全ではない―など」(11月16日、福島民報社説)。飯舘村は、2017年3月の避難解除の後、1年後の2018年4月から3つの小学校と1つの中学校が、元の飯舘中の敷地・校舎で学校を再開することになっています。とは言うものの、前掲のように、飯舘村の避難解除の後も、幹線道路と復興拠点のみが機能するだけで、村はそこで子どもたちが安心して生活するにはほど遠い放射能で汚染されたままです。子どもたちの学校での生活は、その場所だけで成り立つものではなく、住居やそれを取り囲む生活環境、そしてそれぞれの生活がつながる地域コミュニティが成り立っていることが前提になります。それは、単に現在のことだけではなく、受け継がれてきた、生活の歴史の蓄積があって初めて、現在のコミュニティでもあります。
東電福島の事故は、既に5年8か月を超えて、地域コミュニティと、それを生きて成り立たせて歴史を飯舘村で、南相馬市小高区で、人々から奪ったままです。
「その時に、ハッと思い出したのが、原発事故後間もない2011年4月から、やはり取材の縁を重ねた同県飯舘村の農家の主婦、佐藤ハツノさん(67歳)が、全村避難を前にご馳走してくれた「凍み餅(しみもち)」でした。それもまた、たっぷりの砂糖醤油で味わった絶品でした。しかし、こんな痛切な言葉が続きました。『飯舘の山草ゴンボッパ(オヤマボクチ)は、(放射能のために)もう採れない。これが震災前に作っておいた最後の凍み餅なの』。ゴンボッパは、原発事故から5年を経った今なお、相馬地方では『採れない山草』の一つとみなされています。かつては、家々のおばあちゃんが手作りし、私もおやつに食べていた凍み餅は、ほとんど幻の味になってしまいました。原発事故がもたらした『文化の喪失』でした」(「福島の5年」)。
「東日本大震災/何も終わらない福島の5年/飯舘・南相馬から」が、沖縄の沖縄民報で紹介されることになったのは、「エピローグ、沖縄で響いを被災地からの訴え」で沖縄で開かれた「フォーラム/3.11/今できること」が紹介されているからです。そこには、フォーラムについての、琉球新報社説が紹介されています。(「3月7日の同紙社説には、フォーラムについての次のような一節がありました。『大震災と原発事故から決して忘れず、人の痛みそれが事として受け止めて寄り添う沖縄の肝苦(ちむぐり)さんの心を発揮する必要性を再確認する場となった』」)。
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