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小さな手大きな手

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2016年12月04週
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 月刊誌「世界」の新聞広告で、沖縄、福島の論文が目に留まり、時々買い求めています。「福島・甲状腺がん多発の現状」(津田敏秀、「世界」3月号)、「辺野古、代執行裁判『和解』の正体」(五十嵐敬喜、「世界」5月号)などです。その5月号をペラペラ捲っていて、最後のページの「著者からのメッセージ」で紹介されていたのが、「村に火をつけ、白痴になれ」(栗原 康)です。その本、「伊藤野枝伝」の野枝の娘ルイさんは、直接お世話になったこともあり、出会った20年以上前、その生まれてからのことは「ルイズ―父に貰いし名は」(松下竜一)でも読み、少しは知っていました。「村に火をつけ、白痴になれ」は、著者が伊藤野枝の生まれ故郷なども歩いて書いた分、新たにルイさんのことを知ることになりました。今頃、アナキスト・伊藤野枝のことを書く人がいて、本のタイトルが「村に火をつけ、白痴になれ」になったりする本の出版社にも感心しました。で、その岩波書店の編集担当者の計らいで、著者を紹介してもらい、7月に、栗原康さんに関西神学塾の講座を担当してもらうことになりました。更に、9月には、1923年関東大震災の時、甘粕正彦率いる憲兵隊に野枝と一緒に虐殺された「大杉栄伝/永遠のアナキズム」(夜行社)についても講座で話してもらうことになりました。栗原 康さんの3回目の講座は、日本のアナキスト(?)「法然」についての本の出版に合わせて1月頃に実施の予定です。
 2016年の「読書」の始まりは金時鐘の「朝鮮と日本に生きる」(岩波新書)でした。金時鐘が骨肉の叫びとして語る朝鮮と日本に「…反共の大義を殺戮の暴圧で実証した中心勢力はすべて、植民地統治下で名を成し、その下で成立をとげた親日派の人たちであり、その勢力を全的に支えたアメリカの、赫たる民主主義でした」と、容赦しません。その骨と肉の叫びに呼び覚まされ、手元にあった「在日のはざまで」「さらされるものとさらすもの」、詩などを読み返し、「尹東柱詩集/空と風と星と詩」(金時鐘編訳)などにも手を伸ばし、5月には大阪での講演も聞くことになりました。姿勢を正し、腹の底から絞り出す声で、朝鮮半島の現在について、自伝がそうであったように、怯むことも容赦することもない語りには、世界がどんなに悲惨で困難であっても、この人には生き抜く光が見えているように思えました。当日、持参した「『在日』のはざまで」に、「見えない隣人のつぶやきです」とサインをしてくださいました。
 多くはないのですが、読むことが生活になっていて、その本を選ぶのは、別の本からの情報だったりします。西宮あたりで大型書店は、探すのも大変ですから、電話でカウンターに取り置きしてもらっています。それで出かけた書店に、須賀敦子の翻訳書コーナーが設けられていました。目に付くのが少なかった翻訳書で、「なぜ古典を読むのか」(イタロ・カルヴィーノ)などを読むことになりました。取り上げられている「古典」の多くは読んでいません。で、カルヴィーノが紹介し、訳者の須賀敦子も気に入ったという「アナバシス」(クセノポン)を読んでみることにしました。「大事なのは『アナバシス』の著者であり、ペルシャ侵攻したギリシャ軍の指揮官だったクセノポンについて『他国の領土で、略奪者の群れを連れて歩いているという事実を彼はちゃんと心得ている』とカルヴィーノが書いているところだ」(「なぜ古典を読むのか」あとがき)。
 今、「なぜ古典を読むのか」を読書案内に「ドクトル・ジバゴ」なども読んでいます。
 リオデジャネイロ・オリンピックで賑やかな頃、新聞の書評欄に「ブラジル・本」が紹介されていました。その中で目に留まったのが「悲しき熱帯」(レヴィ=ストロース)で、気になっていた南米大陸ブラジルに挑戦することになりました。気になっていた理由の一つが、日本に来たことでも話題の元ウルグアイ大統領、ホセ・ムヒカについて書かれた「悪役/世界でいちばん貧しい大統領の本音」に目を通して、南米大陸をほとんど知らないこと、そこには豊かな歴史、伝統、文化が息づいて、ムヒカのような人物が、大統領であることに気付いたことも一つです。そのムヒカが「悪役」で「この無神論者で無政府主義者の老人」と紹介されているのも、興味を持ったきっかけです。
 レヴィ=ストロースは、「悲しき熱帯」の終章で、「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」「制度、風習、慣習など、それらの目録を作り、それらを理解すべく私が自分の人生を過ごしてきたものは、一つの創造の束の間の開花であり、それらのものは、この創造ろの関係において人間がそこで自分の役割を演じることを可能にするという意味をのぞいては、恐らく何の意味も持ってはいない」と書き、一方でガデュヴェオ族の女の「絵画芸術」について次のようにも書いています。「…その芸術の神秘な魅惑や、一見何の根拠もないように思われるその錯線ぶりを説明すべきであろう。素晴らしい文明ではないか…」。言及されている「素晴らしい文明」を片隅に追いやり、更に絶滅させる人間は、自らの命運を絶とうとしていると、インディオ社会に身を投じて生きた時に、レヴィ=ストロース言わざるを得なかったのです。
 そのレヴィ=ストロースが、「悲しき熱帯」で、ルソーとその3つの著作についても言及しています。「なぜなら、民俗学者の立場に内在する矛盾から我々が抜け出すには、『人間不平等起源論』がのこした廃虚から『エミール』がその秘密を瞥見させてくれる『社会契約論』の広々とした公構築へとルソーが進んで行くことを可能にしたあの遺り方を、我々なりに操り他は全くないのだから」。で、ルソーに言及することで、レヴィ=ストロースは、何が言いたいのか。「…人間社会の確固たる基礎は、我々の文明の中には見出され得ないだろうことを示している。観察された全ての社会のうちで、我々の文明は恐らく、この基礎から最も偏った社会であろう」(「悲しき熱帯」)。即ち、インディオたちの「素晴らしい文明」を、絶滅させる人間の命運は、自らその命運を絶とうとしているとしか見えないのです。
 人間社会がもし立ち返るとしたら、例えば人間同志の約束は、対等で平等な法を共有することであることを、繰り返し言及するのがルソーです。(これは、12月17日の「小さな手大きな手」で、沖縄の現状を見る見方として言及しました)。
 読書ではありませんが、2年続けて佐渡裕さんの「追っかけ」で行ったウィーンで、今年はほんの少しだけ時間の余裕もあって、ブリューゲル、(美術史博物館)、クリムト(オーストリア美術館)などの絵を見ることになりました。“実物”の絵は、画家が全身全霊を掛け、「本物」を描いた結果の作品、人間たちの絵であるように見えました。画家たちが、生きた人間の真っ只中に自分も生きて、生きた人間そのもの、そして愛(その裏側にある“憎”)を見つめなかったら、決して描けない「本物」の絵なのです。
 今、たまたま目を通している「緋の舟」(志村ふくみ、若松英輔、往復書簡)で、ロダン美術館を訪れた時のことを、志村ふくみは、「本物とは、こういう無言の力を持つものだと圧倒され、真っ白になった頭の中で、今までの知性や教養が、ーペンに吹き飛び」「本物の仕事とはこれなのだ」と書いています(パリ通信)。
 と言う「本物」は、たとえは美術だけではなく、生きた人間の生きた洞察とも重なります。須賀敦子は翻訳した「供述によるとペレイラは…」(アントニオ・タブッキ、白水ブックス)のあとがきで、次のように書いています。「…この小説は、あらゆる集団が墜落し、失墜したのをこの50年間見てきた私たちに向かって、根本的に人間らしい生き方、そして死に方を、たとえ時流に逆らってもでも、追及すべきだと示唆しているというでもある」「それは、再三、ペレイラがほのめかす、孤独=個としての独立への誘いに他ならないし、その点からも、『私の同志は私だけです』というペレイラの言葉は重い」。
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