池澤夏樹・個人編集「世界文学全集」(全30巻、河出書房新社)の1冊になり、全集を発行している藤原書店も全3部を一冊として発行することとなった「苦界浄土(くかいじょうど)」の著者・石牟礼道子を訪ねる旅などが「文學界」(2月号、文芸春秋)で特集されています。
水俣の漁師たちが苦難を強いられた「水俣病」が、広く世界で共感・共有される原動力になったのが、「苦界浄土」だと考えられています。人の言葉に何が宿るときそれが可能になったのかを、「文學界」の「虐げられし者たちの調べ」(伊藤比呂美、高橋源一郎、町田 康の対談)そして、「ミナマタで」(赤坂真理)は明らかにしようとします。それ(明らかにすること)が易しくはないのは、石牟礼道子が「苦界」とする極限の苦難を生きる人たちとそれに寄り添うことを言葉で実現したのが「苦界浄土」だからです。対談(熊本で、そして水俣で石牟礼道子とも出会う)も、「旅」(水俣への)も、水俣と向かい合う石牟礼道子がそうであったように、一人一人が極限の苦難・苦界を少なからず共感・共有することで、「苦界浄土」と石牟礼道子を読み誤ってはいないように読めました。それが「…僕は『苦界浄土』で一番すごいなと思ったのは、登場人物の前に連れていかれること。作者である石牟礼さんが聞いているのに、自分に向かって話されているような感じになるじゃない。しかも、聞いたことがない言葉で、意味は半分も分からないのに圧倒されちゃう。普通に読む時って、声ってそんなに聴こえてこないでしょう」(高橋)。で、何が言葉になり聴こえたのか?「自分の体の中の痛みは、日本近百年の痛み」(町田)と気付いたのがその一つです。で、その気付きが、石牟礼道子の中に、その魂の中に宿ったのはなぜか。「石牟礼道子は、患者たちに『仕える』ことで、大いなる智慧に触れようとした人だ」「石牟礼道子は、語り部のようでいて、語り部ではない。むしろ、自分は『語り』ではなく『文学』を持つ人間であることを、語りに対して羞じているように見える。その様が彼女をよく形容する言葉『はじかみ』だろうと私は思う。『語り』しか持たないような人々のほうが神に近く、自分を下に置いている。しかし決して、自己卑下せず、一言も聞き逃さぬよう、貪るように聴く。まるで、それが魂の食であるかのように。それをなくしては、自分は生きることができないというように」「切実にして謙虚な、その姿勢。それが『苦界浄土』を晴れやかで広々とした書物にしている」(赤坂)。
「ミナマタで」は、「苦界浄土」で「声たち」に出会い、更に水俣へ足を運び、出会って耳を傾け、そこでの人々の営みに迫られ、根源を見つめてやっと書くことが可能になりました。それが、「被害者と加害者が、ゼロの地点に立つ。そんなことが、本当に、言えるとしたなら、それは、加害と被害と報復の連鎖に明け暮れるこの世界に、どれほどの救いとなるであろう」(赤坂)の言葉になり、以下の言葉にもなりました。「…見守るということの、なんという無力さ、そして強さ」「ここで私は卒然と気付く。『チッソは、私であったという言葉は、感動的に聞こえるのが、救いではないのだと。むしろそれが地獄の1丁目だった』」「ただ生存するのではなくて、『人として生きる』には、何かが足りなくて、何とも言えない。でも、それは決定的なのだ。そういう何かが『そこ』にある気がする」(赤坂)。
水俣は、共感・共有する人たちをつなぎ続けてきました。「苦界浄土・第2部」を40年近く前に、雑誌「辺境」で初めて目にした時から、石牟礼道子が聞いた言葉の「記録」で、共感・共有する一人でありたいと願ってきました。「そこに、石牟礼道子がいたからというのは、間違いない。求心力としてずっと在った声高でなく、ひっそりと、はにかんで。求心力がそのように穏やかであったから、続いたのかもしれない。『花は誰かに向かって咲いているわけではない』と言ったのは緒方正人だが、方向性のはっきりした力は、強いが折れやすい。花のように、全方向に開かれて微笑んでいるような人が、見えない中心のようにあり、浸透して、それが水俣の幸いだったかもしれない」(「ミナマタで」赤坂真理、文學界、2月号)。」
沖縄東村高江では、米軍ヘリパッドが強行建設されました。実力行動の座り込みなどに参加した人たちの逮捕・拘留が相次ぎ、現在も3人が80日を超えて拘束中です。昨年9月の福岡高裁判決は、政府(アベ)が「米軍基地の建設という自己の政治的目的を貫徹させるために司法手続きを利用し」前知事の埋立承認を取り消した現知事の決定を違法としました。以下、その概略です。「仲井真前知事による判断の誤りや自然環境等への悪影響はわずかであるのに対して、現翁長雄志知事の取り消し処分による不利益は日米間の信頼関係の破綻、国際社会からの信頼喪失、今までの埋め立て事業に費やした経費等、極めて大きいので、取り消しは違法」(「政治的司法と地方自治の危機」岡田正則、世界2月号)。日米同盟を、より強化する辺野古新基地建設が、沖縄の人たち「海ぬ美(ちゅ)らさ 青い海ぬ美(ちゅ)らさ 我(わ)した島ぬ 永遠(とぅわ)ぬ宝 永遠(とぅわ)ぬ宝」(海の美しさ、青い海の美しさ、我々の島の、永遠の空、永遠の空)(弥勒世果報・みるくゆがふ/うないぐみ+坂本龍一、佐原一哉、古謝美佐子)であり、ジュゴン、珊瑚の海を壊すことを許さない願いを、問答無用に踏みにじる判決です。そんな矢先、12月13日に、普天間飛行場を基地とするオスプレイが、安全のための移転先とされる名護市沖で墜落する事故が起こりました。世界一危険な飛行場をより危険にするとして、反対していた沖縄の人たちの願いをすべて踏みにじって、強行配備されていたオスプレイの墜落事故です。海面を滑走し浅瀬に乗り上げて分解した事故であるとすれば、公式発表されている不時着ではなく、墜落事故です。それが、不時着になり、事故原因も明らかにならない中、沖縄の人たちの要望を無視し、日米は飛行の再開に合意し、更に1ヶ月後には事故原因になった空中給油再開にも合意します。「同機の運用は『完全再開』されることになった。日本政府は米軍の再発防止策を『有効』だと容認した」「日本政府は米側の対策について『防衛省、自衛隊の専門的知見に照らして分析した結果、事故防止に有効』(菅 義偉官房長官)と判断した」(1月7日、朝日新聞)。言われている「有効」は、その言葉以上にどんな理由・説明もされません。いいえ、理由ははっきりしています。日米は、日米安全保障条約によって、どんな事故のどんな状況でもあっても、米軍の日本国内での行動を無条件で認めているからです。「平和条約および、この条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍および海軍を日本国内およびその付近(in and about japan)に配備する(dispose)権利を、日本国は許与し、アメリカ合衆国はこれを受諾する」(旧日本安全保障条約、第1条)。という、厳然たる事実によれば、その内容ではなく、「有効」という言葉で、すべては押し切れるのです。「うちなーんちゅ、うしぇーてぃないびらんどー」(沖縄の人をないがしろにしてはいけません)と、どんなに訴えてみても、耳を貸すことも、心を動かすことも無いのは、「有効」という米軍側の通告ですべては決まることになっているからです。
辺野古では、「負けない方法、勝つまでずっと、諦めぬこと」の決意を心に決めた人たちが座り込みを続けています。それに、問答無用で襲い掛かる圧倒的な力が80日を超えて、山城博治さんたちを拘束しています。
2017年1月11日に、辺野古を訪れ、座り込みに参加しました。辺野古で座り込みに参加した人たちは、自己紹介の機会が貰えます。11日の座り込みの参加者は200人くらいでしたが、以下座り込んでいる工事用ゲートの向かいに座った今帰仁村からの一人の自己紹介の要約です。
「今帰仁村から参加しました。難聴なので、なるべくスピーカーの近くと思い、ここに立っていました。それでも、聴いて理解できるのは2/3くらいです。行政には、介助者を付けてほしいとお願いしましたが、「政治活動には付けられない」と断られました。しかし、私がここに来るのは、政治活動ではありません。ただ生存するのではなく『人として生きる』人たちに辺野古では出会えるからです」。
しかしそこは、「日本近代百年の痛み」が今も具現している場所であり、そうして立ち塞がるものたちに対峙する人たちを待ち受けているのは、「地獄の一丁目」でもあることを忘れてはならないのです。「微罪」を繋ぎ合わせて山城博治さんたちを長期拘束し、接見禁止し続けることができる相手なのですから。
しかしそこは、今帰仁村から参加した難聴の人の言葉が紡がれる場所でもあります。
「不思議な気もしてくる。水俣病は紛れもなく厄災であり受難であった。が、水俣病がなければ、こんな人類の偉業もまた、ない。『水俣病はのさり(豊漁)であった』と言った水俣病患者、杉本英子の言葉が、本来の意味が初めて心に響いてくる。患者の自己肯定だけではない、人というすべてに与えられ開かれた、のさり」(「ミナマタで」赤坂真理、文學界、2月号」。
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