30年近く前、パレスチナの人たちとの交流の旅で訪れたナザレで、かつては修道院だったという丘の中腹のホテルの朝は、にわとりの鳴き声で始まりました。ナザレは小さいとは言え、都会の街でしたが、そのどこかで誰かがにわとりを飼っていたのです。
子どもの頃の田舎では、どこの家でもにわとりを飼っていました。教師だった父は、家では卵からひなをかえし、ひなを育てて、手作りのにわとり小屋で飼ったりするのをいとわない人でした。おんどりも飼っていて、生まれる有精卵でひなをかえしていたのです。卵は貴重なタンパク源、働きを終えたにわとりの、父の手でする囲炉裏端の解体ショーを、子どもたちは舌なめずりしながら眺めていました。軒下に逆さ吊りになり、切られた首から滴り落ちる血を見たからと言って、とり肉が嫌いになったりしませんでした。1950年代の日本で、そうして動物タンパク源を口にすることは貴重なことだったのだと思います。
朝は、夜明け前に鳴き、小屋から外に出て散歩するにわとりが、猫に追いかけられたりすると、バタバタと賑やかに軽く100mくらい飛んだりしました。いずれにせよ、猫も、にわとりも、犬も、田舎の生活では“家族”だったのです。
「ねこのごんごん」(大道あや さく、福音館書店)は、そんな田舎の生きものたちの共存が描かれています。物語の主人公は、「ねこのごんごん」ですが、その家の庭の主人公は、いっぱいのにわとりたちです。てんでばらばらに力強く庭を闊歩するにわとりたちが、画面いっぱいに描かれ、それがこの絵本の躍動する生命力の源になっています。
ごんごんは、そんな生命に囲まれて、その生命たちから生きる力を学んでいきます。
「ニワトリが道にとびだしたら」(デビット・マコーレイ作・絵、岩波書店)は、どうということもない出来事から始まる、大波乱の物語です。特に、大波乱ではなくても日常というものは、どうということも無いことから、例えば朝がそうであるように、いっぱいのことが繋がったりして、その日の一日の物語になります。その事こそが、人が生きているそのものであるとすれば、決して脅かすことも、脅かされることもあってはならないです。「ニワトリが道にとびだしたら」は、大波乱であったとそても、描かれているのは、何よりも守られなくてはならない「平和」です。
にわとりが主人公になったり、登場したりする絵本「ぼく あひる」(ミーシャ・リヒター/冨山房)「ねえ、キティおしえてよ」(ミラ・ギンズバーグ/ペンギン社)なども、そこで動物たちの物語が繰り広げられる時の根底にあるのは、同じように「平和」です。
そして、子どもたちの絵本の物語が、何よりも前提にしているのも「平和」です。
で、書くことになったのが、「にわとりに尊厳を!」です。
にわとりに尊厳を!
にわとりに尊厳を
吊るされて
切られた首から
滴る血
下ろされて
走って倒れて
死んだ
絶望から生まれ
殺戮する世界を
新たな絶望が
呑み込む
僕が
むさぼるのは
解体されたモモ肉
僕は拒む
世界が絶望に
呑み込まれるのを
にわとりに尊厳を
ただ、これだと少しばかり厳し過ぎるように思えたので、新年礼拝で毎年お渡ししている“にわとりのバッヂ”のカードは、以下のように書きました。
子どもを守れ
子どもを守れ
夢の世界から
太陽より早く
朝を告げ
草原を走り
大地を掘り
争いもするが
抱いて抱かれ
強くはないが
分かち合うことを知り
明日への希望に生きる
一日の終わりに
夕陽を見つめ
夢の世界に戻る
にわとりを守れ
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