東電福島の事故から6年近く経って、事故の原子炉のうち2号機に、中の様子を調べる為、まず、遠隔カメラ、そして2月16日に中の様子を調べるロボットを投入しました。「東電は1月下旬から、圧力容器の直下を遠隔カメラで調査している。放射線による画像の乱れから線量を評価したところ、圧力容器内の一部が最大毎時530シーベルトに達すると推定された」(2月3日、朝日新聞)。「東電は9日、サソリの進路となる作業用のレール(長さ7m、幅0.6m)にこびりついた体積物を高圧の水で吹き飛ばすロボットを投入。遠隔操作で作業を開始した。2時間ほどかけて約1m進んだところで映像が暗くなり始めたという。高い放射線などの影響で故障したと見られる」「東電は、映像のノイズなどを解析し、付近の線量を毎時650シーベルトほどと推定した。人が近くに留まれば1分弱で致死量に達する強さだ」(2月10日、朝日新聞)。「東京電力は16日、メルトダウン(炉心溶融)した福島第一原発2号機の格納容器内に調査ロボット『サソリ』を投入したが、駆動部に堆積物が入り込むなどしたため動けなくなった。回収も断念した。」「東電は、電気ケーブルを引っ張って堆積物が少ない場所まで『サソリ』を戻し、再び進ませたが完全に動けなくなった。この付近の放射線量は2分で致死量に達する毎時210シーベルトだった」(2月17日、朝日新聞)。
ここで言われている「毎時650シーベルト…1分弱で致死量」「2分で致死量210シーベルト」ですが、言われとするところは少し解りにくいように思えます。例えば「東海村臨海事故」で全身被ばくしたとされる大内久さんは約20シーベルトで83日後に亡くなっています。篠原理人さんは約7シーベルトで210日目に亡くなっています。東電福島の事故の後、確か東電は被曝による致死量は7シーベルトだと言っていました。この「致死量」を超える被曝は、例えば大内久さんの場合は、以下のような経緯をたどることになりました。「…しかし、大内の場合、凝固因子が足りないだけでなく、皮膚から染み出す体液や下血など、1日、10リットル前後の水分が身体の外に漏れ出していた。この水分を補うためにも新鮮な凍結血漿の大量輸血が必要になっていたのだ」(「朽ちていった命/被曝治療83日間の記録」NHK「東海村臨界事故」取材班、新潮文庫、以下、JCO)。この「記録」によれば約20シーベルト被曝したとされる大内久さんは、施し得るすべての手当をしたにもかかわらず、「皮膚から染み出す体液や下血など…」を止めることができず被曝から83日目に「朽ちる」ように亡くなりました。新聞が書いている「致死量」は、これらのことも根拠になっているのかも知れません。しかし、大内久さんの「朽ちていった命」が示唆しているのは、被曝が生きた命に及ばす力は、一旦、被曝してしまった時に決して取り返しのつかないことです。
生きた命について解りやすく教えてくれているのは「いのちと放射能」(柳澤桂子、ちくま文庫)「原発のウソ」(小出裕章、扶桑社新書)です。
生きた命としての人間は(人だけでなくすべての“生きた命”は)、やわな命を生きているのです。「私たちが息をして、食べ物を消化して、そのエネルギーを使って動けるのも、その方法が情報テープの中に書かれているからです。(…2本足で歩くこと、しっぽがないこと、手を器用に使うこと、物を考えること…)。ですから、情報テープは細胞の中の総司令部に当たります。ひとつひとつの細胞は総司令部が正しく動いてはじめて、人間として生きていける素地が出来上がります」。(前掲「いのちと放射能」)。生きた命としての人間の60兆個の細胞の情報テープがDNAです。それらは、単独ではなく結合して必要な生きた情報になるのですが、それらを相互に結びつけているは数エレクトロンボルトのエネルギーです。「それらを相互に結びつけているエネルギーは、わずか数エレクトロンボルト(ev)に過ぎません。この「エレクトロンボルト」という単位は、私のような研究者しか使わないような、とてつもなく小さなエネルギー単位です。私たちの遺伝情報は、測ることの出来ないような微かなエネルギーで精密に組み立てられているのです」「では、放射線はどの程度のエネルギーを持っているのでしょうか。例えば私たちが病院でレントゲンを撮ったときに受けるエックス線は100キロevです。キロというのはご存知の通り、1000倍という意味ですから、10万evということになります。これは私たちの体の分子結合のエネルギーと比べると、何万倍も大きい」「大内久さんは自分の身体を再生する能力を失って亡くなりました。篠原理人さんもそうです。DNAがお互いを引き付け合っている。数evのエネルギーに比べて、放射線の持つエネルギーは数十万から数百万倍も高いために『生命情報』がズタズタに引き裂かれたからです」(前掲「原発のウソ」)。
東電福島の後の調査に“失敗”した2号機で推定されたり、測定したとされる放射線は650、210シーベルトで、それぞれ被曝1分、2分の致死量だとされています。JCOの事故で約20シーベルト被曝した大内久さんの命は、記録によれば生きたまま「朽ちて」失われていきました。その約20シーベルトをはるかに超える「致死量」の650、210シーベルトが推定、測定されているのが、事故の原発福島2号機です。
たぶん、誤っているのは、ここで言われている「致死量」の定義ないし理解です。言われている致死量とは別に、たとえ弱い放射線であってもそれは生きた命の証である細胞の1つを致死させる力を持っています。弱い放射線であっても、生きた命の証である細胞に必ず取り返しのつかない影響を与えるのです。
今、途方もない量の放射線が推定ないし、測定されている東電福島はその2号機だけでなく、1、3、4号機も途方もない放射線が、生きた命が近づくのを拒んでいます。途方もなく高い放射線であるのはもちろんですが、そもそもが生きた命を脅かす制御しようのない力を持った放射能がそれを作り出した人間の力の及ばない場所、世界を作ってしまっているのです。事故になってしまった時、修復を不可能にしてしまう施設を人間が作ってしまったのです。そして、推定650、測定210が突きつけるのは、そこだけの「致死量」の問題ではなく、閉じ込められなくなった放射能が、広くこの星の生きた命にすべてに、それを生きた命たらしめている細胞の一つ一つを「致死」させるかもしれない、いいえ、致死させている事実であるように思えます。
東電福島の事故をコントロールすることは不可能です。ちっちゃな試作品のロボットを、最大の危険を犯しながら、小さな穴から投入してみたものの、操作が難しくなって、そこに置き去りにしました。6年近く経ってできているのはその程度です。超高度の放射線なのですが、人間の技術が完全にそれを制御するはずの、その前提となる技術の一つ一つが、自然の力によって(想定外だったのだそうですが)容易に破られてしまったからです。
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