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小さな手大きな手

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2017年03月01週
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 「教育に関する勅語」いわゆる教育勅語が少し話題になっています。経営している幼稚園が、別に小学校を開設するにあたって取得した土地とその工事が、いくつかの手続きで「不法」があったことが明らかになり、当該幼稚園で、子どもたちに教育勅語を暗唱させていたなどのことが話題になっているのです。子どもたちの「教育」にあたり、何をしても「自由」だと理解している幼稚園の経営者は、「教育勅語」のことや、日本国民と言わず「日本民族」と言わせたりしていることが評価され、開設される予定の小学校の名誉校長が「アベ政治」のアベの連れ合いだったり、「アベ政治」も結果的には繋がりがなくはなかったなどの事が取り沙汰されることになって、少なからず話題になっている教育勅語です。
 長くなりますが、全文を紹介すると以下のようになります。
朕惟フニ我カ皇皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民トニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽
たぶん、そして間違いなく教育勅語を教会の印刷物に掲載したり、以下のように言及したりすれば、1945年8月15日までの日本だったら、「不敬罪」という法律で犯罪として裁かれるのはもちろん、社会的にこっぴどく制裁を受けることになりました。教育勅語は、かつて教育現場などで直立不動で東の方を向き、暗唱・朗読することになっていましたが、一字一句間違うことは許されませんでした。くだんの幼稚園でだったら、子どもたちも関係者も、本来、そして絶対に間違いを許されない教育勅語が、かなり怪しく扱われていたであろうことが小学校開設を巡る「不法」などから明らかなように思えます。たとえば、教育勅語は文章としてそこにある時、ただの文書ではなく、天皇の人格そのものと理解されていました。その時の天皇は、大日本帝国憲法、いわゆる明治憲法では以下のように定義されていました。
第1章 天皇
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
 ですから、「朕惟フニ我カ皇?皇宗國ヲ肇ムルコト…」で始まる教育勅語は、たとえば暗唱する時、間違いは許されなかったのです。人格として「神聖」ですから言葉も神聖なのが教育勅語です。そこでは、「読」「忠」「美」などのことが言及され、それを「敎育ノ淵源(えんげん)亦實ニ此ニ存ス」とし、「孝」「友」「和」「信」「愛(博愛)」、そして「公益」「国憲」「国法」を重んじることが言及されます。なのに、アベ政治のアベの連れ合いが、名誉校長だったりし、教育勅語を子どもたちと暗唱させていた幼稚園は、その一方であれこれ、「不法」に手を出していたらしいことが明らかになっています。国会議員を訪ねた幼稚園の責任者が用意していった封筒を突き返したとする議員は、中味を確かめていないので、それは現金だったかも知れないし、こんにゃくだったかも知れないと、記者に答えていますが“モノ”を代償と有利にことを進められると思っている人たちなのです。そうして、あぶり出されることになったのが、話題になっている幼稚園の経営者や、その人たちが繋がっている政治の世界、アベ政治です。
1945年8月15日までの教育勅語は、その取扱いは細心の注意を払っても、まだ足りない絶対のものでした。内容として、それが求めるものの一つ「……一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(国に危機が迫ったなら国のため力を尽くし、それにより永遠の皇国を支えましょう)」は、別の軍人勅諭と一体の絶対服従の軍隊を作り上げることになります。それが例えば、「…忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ…(軍人として自分の義務である忠節を守り、天皇の国家に対して尽くす道は険しい山よりも重く、死はおおとりの羽よりも軽いと覚悟しなさい)」になったりします。
 この「教育勅語」「軍人勅諭」が、例えばアベ政治の政治思想の一つ
である「積極的平和主義」です。「テロ、難民、貧困、感染症。世界的な課題には深刻さを増しています。こうした現実から、我が国だけが目を背けるようなことは、あってはなりません。今こそ、『積極的平和主義』の旗を高く上げ」(安倍首相の施設方針演説、1月21日、朝日新聞)。言われている「積極的平和主義」は、平和とは真逆の、戦乱、混乱を更に大きな武力行使によって始めることを意味しています。大阪の隅っこで、たまたま露見したかに見える小学校の新設、そしてそれを計画する幼稚園の問題は、少し遠回りに、しかし確実にそうした事実をあぶり出すことになりました。時あたかも、学生諸君の就職活動が解禁されることになり、走り回る様子が話題になっています。確かに、この競争社会で生き延びていく、新たな一歩として走り回るのでしょうが、それが「一斉に―!」であるところが少なからず気になります。「一斉に―!」ではなく、中には違う生き方を選ぶこと、選べる社会であってもいいように思えます。たぶん「一斉に―!」で走り出している学生諸君には、それは見えにくいかもしれません。その「一斉に―!」ではない生き方の「指南書」が「孤独論/逃げよ、生きよ」(田中慎弥、徳間書店)です。孤独で、逃げて生きたにせよ、芥川賞作家になってしまった人の指南書ですから、そのまま誰にでも当てはまる訳ではありませんが、手がかりにはなります。「意地や、プライドは余計な荷物だということを自覚してください。そんなものはどうでもいい。無用な姿をさらすのと引き換えに逃げられるのですから、安いものです。無責任のそしりを受けるのなら、それも言わせておけばいい。そんなことより、自分の命を守り、生き方を取り戻す方が、はるかに重要です。とにかく、良からぬ状況から逃げ出します。ここでは、精神的に逃げるなどといった。象徴的なことを指しているのではありません。実際に、逃げる」(前掲、「孤独論/逃げよ、生きよ」)。アベ政治の「積極的平和主義」は、その政治家たちではなく、言われている自衛隊員たちの誰かの命を、ゆくゆくは幼稚園の子どもたちも「…死は鴻毛より軽し」にします。それをあおるアベ政治の政治家はどんな「不法」を手段にしても生き残る人たちです。
 「孤独論/逃げよ、生きよ」の著者の別の本が「宰相A」です。「宰相A」のAは、そのままアベ政治ではないのでしょうが、宰相Aの演説の論旨は積極的平和主義です。「我が国とアメリカによる戦争は、世界各地で順調に展開されています。いつも申し上げる通り、戦争こそ、平和の何よりの基盤であります。戦争という口から、平和という歌が流れるのです。戦争の器でこそ中身の平和が映えるのです。戦争の器でこそ中身の平和が映えるのです。戦争は平和の偉大なる母であります。両者は切っても切れない血のつながりで結ばれています。健全な国民には健全な戦争が必要であり、戦争が健全に行われてこそ、平和も健全に保たれるのです…」(「宰相A」田中慎弥、新潮社)。「宰相A」とアベ政治のアベは別人ですが、「積極的平和主義」要するに戦争で片を付けることに積極的であるという点では、「宰相A」はアベ政治のアベとほぼ同じ人物として、著者・田中慎弥は想定しているように読めます。アメリカの新しい大統領にすり寄って、日米同盟を殊更協調したりする点でも、「宰相A」はアベ政治のアベそのままです。
 「神聖にして侵すべからず」である天皇の言葉、勅語(諭)が「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」とし、戦争に送り出した300万人に近い兵士たちの、中でも100万人とも言われる兵士たちを餓死させてしまうのですが(「地獄の日本兵」飯田進、新潮社)、同じ勅語である教育勅語が全くすべて無残であるという訳ではありません。例えば「国憲を重んじ国法に遵い」と、無法を許したりはしないのです。今、子どもたちに教育勅語を暗唱させたりする人たちは、法をないがしろにし、無法を恥じることもありません。アベ政治はその人たちを取り込み、取り入れることを良しとしてきたことが、アベ政治の連れ合いの名誉校長だったりします。
 で、そんな勅語の一つが1879年の「琉球廃藩の勅諭」です。まあ、いろいろ面倒を見てきたのに、生意気だに始まり、「舟路遼遼」要するに離れた島で勝手にやっているのが目障りなので、藩を廃し藩主などを東京に呼び寄せることにするから、臣下として忠実に仕えるようにしなさいという趣旨で、それを力づくで求めます。沖縄の人たちのいうところの、琉球処分です。この時、沖縄の人たちが燃料など、共有の山林として守ってきた国頭村東村の山原の森を、国有地(森)にしてしまいました。70年前、沖縄戦の後、この森は米軍北部訓練場(基地)として提供され70年経った今、東村高江の集落を囲むようにして、建設されたのがオスプレイなどの飛行訓練のためのヘリパッドです。 height=1
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