(前週よりのつづき)
で、「最高裁で違法とされ」なのが、高裁の判断をそのまま是認した判断は、本来の法をめぐる争いではなく回避した「政治裁判」です。「翁長氏の承認を取り消した」の、取消の理由は、①、辺野古沿岸を埋め立てることは、そこで営まれる生きものたちの自然を壊すことになる ②、米軍新基地による沖縄の人たちの危険が結果的には軽減されることがないなど、法を根拠に示したものでしたが、裁判はそれを避け、日本の防衛・安全が優先することを理由に、「本件では、担当行政府である現知事の『(a)本件埋立承認に違法等があると認められる』という判断に対し、裁判所(最高裁)が「(a)本件埋立承認に違法等があるということはできない」という判断を代置して、現知事の判断を否定した。つまり、違法等の有無についての判断権は裁判所が独占するのだ、というのがこの判決の立場である」結局、この高裁判決は≪行政処分に違法等があると認められないときには、行政庁が当該処分に違法等があることを理由にそしてこれを職権により取消すことは許されず、その取消しは違法となる≫というごく常識的な基準を適用したように見せかけながら、実際には、違法判断の主体を逆転させることによって、審査能力の点で劣る裁判所の判断を担当行政庁の判断より優先させるという、これまで最高裁自身が否定してきた判断代置をやってしまったのである」「『政治的司法』とは、第二次世界大戦後のドイツにおいて、『政治的目的のための司法手続きの利用』という意味で用いられている」「…国が自己の利益を貫徹させるために地方自治法の関与制度を用いることは、不正が制度利用にほかならないのであるが、政府は、米軍基地の建設という自己の政治的目的を貫徹させるために司法手続きを利用しているのである」(以上、「『政治的司法』と地方自治危機」、岡田正則、世界/2017年2月)。
アベ政治が司法を利用し「最高裁で違法とさせた、辺野古埋め立て承認の「取り消しの取り消し」にもひるむことなく、新米軍基地建設に反対し辺野古で座り込む人たちに呼応し「…あらゆる手法で撤回を必ずやります」としたのが、3月25日の翁長沖縄県知事の辺野古での発言です。
これに対し、アベ政治が持ち出しているのが賠償請求です。「菅義偉官房長官は27日(3月)の記者会見で、沖縄県の翁長雄志知事が米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先となる同県名護市辺野古の埋め立て承認を撤回する方針を明らかにしたことを受けて、対抗措置として翁長氏個人への損害賠償請求も選択肢とする考えを示した」「県条例に基づく『岩礁破砕許可』は今月末で期限を迎えるが、政府は期限が切れても今回は更新する必要がないとの見解を示し、工事を続行する方針だ。これに対し、翁長氏は『埋め立て承認の撤回』に踏み切る考えを表明。今回の撤回は県の政策変更や翁長氏の政治判断によるものではなく、事業者である政府側に不正や重大な違反があるとの主張だ」「県幹部は『民間事業者が同じように工事を進めれば普通は許可を撤回する。原因は政府側にあるのだから、県には賠償責任はない』と訴える」(以上、3月28日、朝日新聞)。
沖縄の人たちが求めてきたのは、世界一危険な普天間飛行場の撤去です。それが辺野古移設になってしまう時、世界一危険をそこに移し更に辺野古大浦湾の海の生きものたちの命をおびやかすことになります。海は、漁業をするだけの場所ではりません。生きものたちが生きる場所であり、沖縄の人たちはその海を守る為、そして新米軍基地によって自分たちの生活が脅かされるのを拒み反対の座り込みを続けてきました。(座り込みは、2017年4月1日で1000日を超えます)。生きものたちの命の海を守り、基地ができて脅かされることから沖縄の人たちの生活を守る願いは、「取り消し処分を取り消す」という司法の政治判断による判決で踏みにじられてしまいました。それでもめげずに踏み止まる沖縄の人たちに対する、アベ政治による脅しが「翁長氏に賠償請求」です。火の粉が振りかけられるのに対し、それを振りのけることへの脅しです。司法手続きを利用し、守られなければならない生きものたちの命の海を脅かし、政治目的で新米軍基地を建設しようとするのがアベ政治です。
そうして、アベ政治が一方的に新米軍基地の押しつけを貫徹しているのに、担当大臣は生きものたちの命の側に立つ沖縄の人たちを「自分に都合の良い発言」と言ってはばかりません。「沖縄県の米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画をめぐり、鶴保庸介・北方相は、11日の記者会見で、移設中止を求める県の動きを念頭に『ポジショントーク(自身に都合の良い発言)するような向きも、ないではないかもしれない』と述べた。反対の声を上げて『気持ちよかったね、と終わったんじゃ意味もない』とも指摘した」(4月12日、朝日新聞)。
沖縄の人たちが、奪われ押し付けられている米軍基地のことで、全市町村の合意で「建白書」を提出したり、県議会の意見書まで「尊厳を踏みにじるもの」であるとしたりするのは、「自身に都合よい発言」であり得ないのは、言葉を尽くして語られている発言の一つ一つから明らかです。担当大臣は「…鶴保氏は辺野古移設を唯一の解決策をする政府の立場を強調した上で『反対する側は解決策などの意見もあってしかるべきだ。(県の)一定の立場の方々は、(反対論を)言って終わりということではなく、建設的な意見も闘わせるべきだ』とも語った」(同前、朝日新聞)。間違っているのは、沖縄の人たちが、「反対」「反対論」なのではなく、奪われて作られてしまった米軍基地の撤去を求めるという「正当」な願いを踏みにじり続け、あまつさえ、辺野古に新米軍基地を作って欲しくないとの切なる願いを、それを「反対」「反対論」だとするのは、そもそもの話の筋が違っています。「建設的な意見」があるとすれば、沖縄の人たちが求め続けている米軍基地の撤去であり、沖縄ではない別の「建設的な」意見をアベ政治こそが示すべきなのです。
沖縄の人たちが、沖縄の悲惨な戦争の後求め続けてきたのは、平和な島です。「米軍人等の刑事犯罪件数が6000件」の米軍基地の島ではなく、世界の戦争の攻撃の先端になる米軍基地の沖縄ではなく、生きものたちの命の海、命の森が島の人たちによって守られる沖縄です。「…反対する側は解決策などの意見もあってしかるべきだ」に対する沖縄の人たちの意見があるとすれば、既にそして繰り返し沖縄の人たちが願ってきた、米軍基地のない平和な島、沖縄です。決して見果てぬ夢ではない一人一人の尊厳のこととして、沖縄の人たちは辺野古で座り「取り消しが取り消された」時には「あらゆる手段で撤回を必ずやります」という魂の言葉に結実しています。
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