今日、自由な主体agent libreとしての人間を見出した啓蒙と、市民の共同体としての〈共和国〉を創出したフランス革命を経験した地域においてさえ市民の存立が脅かされているのだとすれば、「国家」が自然的・民族的な所与としてるねにすでにあったkのごとくに捏造され、その共同体の血の刻印を受けているものはみずからの意志とはかかわりなく、つねにすでにそのなかに取り込まれているという規制が否応なしにはたらくところでは、その名に値する公共的世界にいたる道はいったいどうすれば見つかるのだろうか。 …そして、その帰属しているという事実が彼を定義している。人はすでにある集団的秩序のなかに入るのだが、その秩序は個人に先行しているがゆえに彼を超越している。変容への意志は、この学校がいやなら別の学校に行けばよい、この国がいやなら出て行けばいいというような排除の反応を引き起こす。みずから出て行こうとしない人間は、ときに肉体的抹殺の危険にさらされることさえあるだろう。いや、自分の意志で出て行くことができるならそれはまだいい方で、本来的なものとされる集団への自然的なものと見なされる(したがって、意思的に選び取られたわけではない)帰属が絶対化されるあまり、その集団からの離脱の意志さえ無視されるということさえ起こりうるのである。
(「モーツァルト《フィガロの結婚》読解/暗闇のなかの共和国」小林 章、みすず書房)
東電福島の事故で避難している人たちのうち、事故から6年経った3月31日に飯舘村、浪江町、川俣町山木屋地区、4月1日に富岡町が避難解除になっています。解除から1カ月経った4月末になっても、帰還は徐々にしか進んでいません。 人口18464人の浪江町の解除対象者は15327人で、帰還したと見られるのは200~300人程度です。人口13560人の富岡町は解除未定が3982人、対象者は9578人で、解除後に帰還が確認された町民の数は発表されていません。人口6122人の飯舘村は解除未定が263人、対象者は5857ですが、帰還村民の数は確認されていません。「東京電力福島第一原発事故による居住制限、避難解除準備の両区域が3月31日午前零時に浪江町、飯舘村、川俣町山木屋地区、4月1日午前零時に富岡町で解除されて1カ月を迎える。これまでに4町村合わせて4百人以上が帰還し、大型連休中の引っ越しも多いとみられる。だが、住民からは生活環境のさらなる充実を求める声が上がる」(4月30日、福島民報)。
帰還するにあたっての生活環境のさらなる充実のそもそも実態は、新聞報道によると以下のようになっています。「浪江町内でJR常磐線浪江――小高駅間が運転を再開した。5月上旬にはタクシーの営業も始まる。一方で、生鮮食品を購入できる商業施設の再開、整備を求める声は多い。個人商店再開の動きはまだ鈍く、桑折町に避難している精肉店代表の川合陽一さん(69)は『個人商店は大手スーパーと違って利幅が少ない。(今の環境状況だと)経営を再開しても続けられない』とハードルの高さを指摘する。浪江町は大型商業施設の再開も目指しているが、現時点ではめどが立っていない。町の担当者は『再開支援の補助制度などを周知しながら、粘り強く交渉していくしかない』と決意する」「高齢化率が3割以上の飯舘村では福祉の充実が課題だ。社会福祉法人いいたて福祉会が提供していたディサービスは人手不足で今なお再開時期は未定のままだ。村内に一人で暮らす大谷孝さん(75)は『避難中の高齢者が安心して戻れる状態ではない。早く震災前のように近所の人たちが伝統行事や新年会で集まれるようになればいいが…』と語った」(同前、福島民報)。
帰還するにあたって、それぞれの村、町の住民から「生活環境のさらなる充実」が求められていますが、浪江町の場合、避難指示解除から1カ月経って、帰還したのは解除された15327人のうち、200~300人です。生活に必要な生鮮食品を購入できる個人商店などは人が少なすぎて「経営を再開しても続けられない」状態で、もちろん、そこでの大型商業施設再開のめども立っていません。「数百人」が帰還したとみられる飯舘村も、高齢者率が高い村で、福祉サービスが間に合いませんから「避難中の高齢者が安心して戻れる状態ではない」状況です。戻りたいのですが、帰還して生活する為の安心の保障がありませんから戻れないのです。そんな安心は「早く震災前のように近所の人たちが伝統行事や新年会で集まれるようになれば」なのですが、避難指示解除1カ月で、数百人しか戻らない状況では、安心の保障は当分の間得られにくいはずです。 事故、そして避難から6年、元の生活の元の住居に戻ることを願っていた人たちの避難が解除されたにもかかわらず、なぜ多くの人たちは戻らないのか、あるいは戻ることができないのか。
戻れる場所ではないと考えられているからです。で、戻るとすればその条件は「生活環境のさらなる充実」だとされています。しかしその実態は前掲のように、「生活環境のさらなる充実」ではなく、生活環境というものがそこでは失われ、失われたままなのです。人が生きて生活する場所として成り立つ生活環境は、その人の意志で決めさえすれば、生鮮食品を購入できなくても、大型商業施設がなくても、それはそれで生活環境で、どんな場所のどんな場合でも、そのままの環境(自然)の中で営まれてきました。
たとえば、大きな自然災害の、生活を根こそぎ奪ってしまった2011年3月11日の東北の大地震、大津波であっても、根こそぎ奪われた元の村や町のそこに戻って、繰り返し悲しみを新たにしてきました。根こそぎ奪われたとしても、そこに戻ることはできたのです。 東電福島の事故で避難することになった人たちが違っているのは、降り注いだ放射能の毒でそこは人が住んで生活できない、戻ることもできない場所になっていることです。 除去することのできない大量の放射性物質が降り注ぎ、放射能の毒で人が住んで生活できない、戻ることも立ち入ることもできない場所なのです。
(次週につづく)
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