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小さな手大きな手

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2017年06月02週
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2017年3月末に、避難解除された福島県飯舘村には、2018年4月に避難している子どもたちも戻ることになっています。飯舘村では、子どもたちが戻る為の準備が進められています。「東京電力福島第一原発事故に伴う避難指示が一部を除き3月末に解除された飯舘の飯舘中で15日、認定子ども園と小中学校を集約して来春開校する新学校施設の工事安全祈願祭が行われた。学校に隣接する村スポーツ公園整備工事の安全祈願祭を兼ね、約70人が出席した。菅野典雄町長らが鍬入れし、玉ぐしを捧げた。菅野町長は『古里を守ろうとする多くの人の思いを込めた工事が復興の基礎になるよう願う』と挨拶した」「工事では小学生が学べるよう飯舘中校舎を改修するほか、認定子ども園舎、小学生用体育館、屋内プールなどを新設する。スポーツ公園は全天候型の400メートルトラックと人工芝を備えた陸上競技場、人工芝の野球場、屋内運動場などを整備する。復興事業費は、学校とスポーツ公園を合わせて約60億円」「飯舘村では4月現在、草野・飯舘幼稚園の24人、草野・飯樋・臼石合同仮設小学校の51人、飯舘中の64人が村外の仮設校舎に通っている」(5月16日、福島民報)。新聞には、以下のような工事についてのイメージ図も紹介されています。
 1956年9月末に大舘村と飯曽村が合併し2006年に50年を迎えた飯舘村は「『私たちの思い出を皆さんに』~映像で綴る飯舘村の50年~」(飯舘村、平成20年度福島県地域づくり総合支援事業、以下「DVDまでい、飯舘」)によれば、その「までいライフ」(「手間ひま惜しまず」「丁寧に」「時間をかけて」「じっくりと」「心をこめて」の意味“までい”)が、人口およそ6000人の村の自立を可能にしてきました。そのことの何よりの基本、手掛かりになってきたのが、飯舘の自然と人でした。人と人のつながり、人と自然のつながりが、かつてこの国のどこにあっても、人が生きる力になってきました。そして、多くの地域で、本来人が生きる力であるはずの、人と人のつながり、人と自然のつながりは失われて、そこから人が去り、本来持っている自然の力も奪われて行きました。
 飯舘村は、前掲の「までい・飯舘」によれば、人と人のつながり、人と自然のつながりをそこに住む人たちの生きる力にしてきた“奇跡の村”なのです。しかし、決して奇跡なのではなく、可能にしてきたのが「までいライフ」でした。
 「『手間暇を惜しまず』『丁寧に』『時間をかけて』『じっくりと』『心込めて』という意味を持つ『までい』という方言を様々な場面で使いながら、地に足をつけた『までいライフ』の日々の暮らしをしてきました」からこそ実現した村の人たちの飯舘村だったのです。そして、「までいライフ」のDVD「…飯舘村の50年」は、「…人間本来の『暮らし』や『生き様』そして『飯舘村の良さ』をもう一度見つめ直していただければ幸いです」は、その自負を裏切らない「までいライフ」を映像として伝えています。
 2012年の「富山和子がつくる―日本の米カレンダー/水田は、文化と環境を守る」(発行:水の文化研究所)の表紙は、飯舘村の森の中の牧草地の牛たちの写真でした。「までいの村、自立の村、福島県飯舘村。人と土地と家畜は一体の筈だった。2011年5月15日全村計画避難を開始」。カレンダーには、製作した人たちの願いが次のように書かれています。「米と日本人とは、母と子のように、太い絆で結ばれています。日本の自然の文化は、米作りに上に築かれ、国土の自然は農民によって支えられてきました。ところが今、農業が危機に瀕しています。それは取りも直さず、私たちが日本文化の土台を失うということであり、山や川など自然の環境も危うくなるということです。先祖たちが営々として育んできたこの美しい自然と文化を、次の世代へ送るために、どうしても農業を守りたい。そんな願いを込めてつくったのが、このカレンダーです」(日本の米カレンダー、2012)。
 「ところが今、農業は危機に瀕しています」とされている日本の農業、その農業、牧畜業、林業を、までいの村「までいライフ」「までいの力」の自立の村として「次の世代へ送る」道を歩み、そして指し示してきたのが福島県飯舘村だったのです。「手間ひま惜しまず」「丁寧に」「時間をかけて」「じっくりと」「心をこめて」という意味を持つ「までい」「までいライフ」です。
 今(2017年6月)その飯舘村を訪ねてみると、すべての田んぼには雑草が広がっています。降り注いだ放射性物質の表土を5センチ削り取り、代わりに付近の山土を運び込みましたが、米作りは中断したままです。それが毒だからということで削り取られた田んぼの表土は、その田んぼの一部などに黒い袋・フレコンバッグに詰め込まれ、縦30個、横15個ぐらいのものが4~5段に積み上げられ、そのままのものもあれば、グリーンのシートで覆われているものもあります。「人と土地」が一体だった飯舘村の農地は、除去できない放射性物質・放射能の毒で汚れてしまい、苗を植え育て米を収穫するはずの田んぼには雑草が広がっているのです。
 「文化と環境を守る」田んぼが本来の意味の働きができなくなったのが飯舘村です。「富山和子がつくる―日本の米カレンダー―1012」の表紙は、飯舘村の森の中の牧草地の牛たちの写真です。今(2017年6月)の飯舘村の森の中の牧草地にも、点在する牛舎にも「飯舘牛」の姿はありません。ゆったりとした時間の流れを数える牛たちの声も聞こえてきません。放射性物質・放射能の毒が降り注いだ町や、村ではその毒を取り去る除染が実施されました。けれども、飯舘村の除染した結果の放射能の毒は、雑草の繁る田んぼのすぐそこに積み上げられることになりました。そんな、田んぼを取り囲んでいるのが、牛たちの牧草地にそのままつながる森林です。森林はしかし、除染の対象にはなりませんでした。難しかったからです。広すぎるのはもちろん、凹凸のある地形の、木で覆われた森林を、手作業で除染するのに要する途方もない労力などのことから、除染の対象にはならなかったのです。除染住宅や農地から20メートルの範囲に限定されてしまったのです。
 飯舘村は、事故の東電福島から北西およそ30キロメートルの村です。「北西」であることが災いし、原子炉建屋の爆発で環境中に放出された放射能の毒が飯舘村の方に流れ、更にその時の雪・雨で村全体を覆うようにして降り注ぐことになってしまいました。住居はもちろん、飯舘の「までいライフ」の根っこに支える、農地、森林、牛たちの牧草地が汚染されてしまったのです。これらの事実が、飯舘村の人たちに知らされたのは放射能の毒が降り注いだ、かなり後になってからです。東電福島の事故の後、避難指示の範囲は、5キロ、10キロ、20キロと拡大されます。その拡大された先、放射能の毒の“雲”が流れた先の一つが飯舘村でした。その飯舘村は、事故で、5キロ、10キロ、20キロと拡大された地域の人たちが避難する経路、更に滞在する場所にもなりました。しかし、そこが放射能の毒が、降り注いだ場所であり確実に被ばくすることを、そこが避難経路・滞在する場所になった時、避難する人たちも、飯舘村の人たちも知らされませんでした。
 飯舘村の人たちが全村計画的避難を開始することになったのは、東電福島の事故から2か月余り経った2011年5月15日です。
 2018年4月、飯舘村の草野・飯樋幼稚園の園児たち、草野・飯樋・臼石の小学生たち、飯舘中の中学生たちは、前掲の「認定子ども園と小中学を集約して来春開校する新学校施設」に戻ることになります。その施設が「飯舘村の学校とスポーツ公園整備計画のイメージ図」です。
 その小中学校になる元の飯舘中では、昨年も校庭のすべて、例えば樹木の根っこが露出するまで削り取る除染が実施されていました。今、子どもたちが戻る為の整備工事が始まっている2017年6月の校門付近の放射線量は0.22~0.35μSv/時ですが、イメージ図の「小学生用体育館」「認定子ども園」の左手に見えている小高い丘を越えた、中学校から100メートル余り先の道路脇の同日の放射線量は、1.3~1.5μSv/時です。飯舘中の敷地と、敷地を取り囲む小高い丘までを、削って除染したとしても、その範囲外のすぐそこの子どもたちが少し足を延ばして遊ぶことになる森林も、道路も1~2メートルの高さの空間放射線量は1.5μSv/時(13.14mSv/年)なのです。2018年4月に、そんな場所に子どもたちは戻って行くことになります。 height=1
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