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2017年06月04週
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  モーツアルトと、フィガロの結婚を少しずつ「勉強」しています。30年ほど前、「アマデウス」(ピーター・シェーファー、劇書房)を読む機会があり、映画化された「アマデウス」(脚本・ピーター・シェーファー、監督・ミロス・フォアマン)も強く印象に残っていました。とは言うものの、モーツアルトへの関心が、その「天才」の作品への強い関心へと向くことがないままでした。それが、7月に、兵庫県立芸術文化センターで上演される、佐渡裕プロヂュースオペラ「フィガロの結婚」のことで「勉強」を口にしたのがきっかけで、にわか勉強に明け暮れています。
 それも、「勉強」で最初に読み始めた「モーツアルト〈フィガロの結婚〉読解/暗闇の中の共和国」(水林章、みすず書房)、以下「フィガロ読解」が、難解(特にオペラ、音楽知識、常識の不足で)ながら、おもしろくて2か月前くらいから、モーツアルト、フィガロの結婚で過ごしています。
 以下、勉強することになった「モーツアルト〈フィガロの結婚〉読解」とは別に「アマデウス」「モーツアルトの手紙」(上・下、岩波文庫)、「幸福への意志/〈文明化〉のエクリチュール」(水林章、みすず書房)、「マリヴォー/ボーマルシェ名作集」(白水社)、「モーツアルト」(スタンダール、東京創元社)、「人間不平等起源論」(ルソー、岩波文庫)、「『カンディード』〈戦争〉を前にした青年」(水林章、みすず書房)「カンディード」(ヴェルテール、岩波文庫)を「勉強」している中間的なまとめです。尚「勉強」がルソーやヴェルテールに及ぶのは、この同時代、ないし前後の時代を生きた人たちの、歴史、思想がモーツアルトや「フィガロの結婚」の理解を深めるのに欠かせないと考えられる(水林章)からです。「勉強」にあたっては、主として力量の問題から、前掲の資料、文献などに限ることになりました。尚、フィガロの結婚は「歌劇〈フィガロの結婚〉K.492 ハイライツ」(ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団・合唱団、指揮:カール・ベーム)を30回以上聞き、「モーツアルト、歌劇『フィガロの結婚』K.492、カール・ベーム指揮、ウィーン国立歌劇場日本公演」のDVDを都合3回観賞したりしています。
 「オペラ、音楽の知識、常識の不足」ということでは、オペラには歴史および内容で、セリエとブッファに分類されることなどもちろん知りませんでした。そして、モーツアルトの代表的なオペラ(フィガロの結婚、魔笛、ドン・ジョヴァンニ)などが、オペラ・ブッファであることは、モーツアルトのオペラ、音楽を理解する上で、大切なことなのです。「わたしはさきほど、18世紀前半がセリアの時代で後半はブッファの時代だと書いたが、セリアからブッファへの重心移動、セリアの没落とブッファの勃興は、オペラにおける表象内容の脱神格化、脱英雄化に対応していたということである」(「フィガロ読解」)。「オペラ・ブッファとは、ギリシャ神話や古典古代の英雄たちを題材にしたオペラ・セリアとは違って、同時代の生身の人間たちの日常的世界に照準をあわせたオペラのことである」「さらに〈フィガロ〉を歴史的に位置づけるという点にかんしてもうひとつ付け加えるとすれば、この作品が音楽的ディスクールの歴史のなかでほとんど前代未聞といってよいほど革新的なものであったということも重要である。わたしが言いたいのは、新興のジャンルであったオペラ・ブッファを決定的な高みに押し上げた〈フィガロ〉の途方もない新しさのことだ」(「フィガロ読解」)。言われている前代未聞といってよいほど革新的」「途方もない新しさ」は「有力貴族と高位聖職者、そして貴族化した大ブルジョアジーが支配する身分制社会」で、その貴族「アルマヴィーヴァ伯爵の奉公人フィガロとその許嫁で伯爵夫人に小間使として仕える農民の娘スザンナ」「本来ならば自己決定的な主体とは見なされない」2人の若者の結婚が主題となるオペラ・ブッファ「フィガロの結婚」なのです。オペラの物語は「地位と財産と浪費壁によってその計略(フィガロとスザンナの結婚の“初夜を奪う”)を遂行するには無敵のはずの絶対的な支配者の計略を失敗に終わらせる」、そして領主、男の支配をくつがえらせるのに領主の妻も力を合わせる、要するに男と女の力関係を逆転させる意味と内容を、音楽の力で表現し切っているという意味で、「前代未聞といってよいほど革新的」「途方もない新しさ」を持ったオペラ作品が、「フィガロの結婚」なのです。
 そして、モーツアルトの生きた時代はもちろん、時代を超えて「フィガロの結婚」などのモーツァルトの音楽に出会ってきた人たちを「…その甘美な哀愁、運命が我々に分かち与えてくれる幸福の分け前についての内省など、大きな情熱の誕生に先立つあの懊悩すべて」魅了し続けてきたからです。(「モーツァルト/モーツァルトの手紙」スタンダール)。スタンダールは、「モーツァルト」で、彼の「天才」について繰り返し言及しています。「天才を持たぬ人間が刻苦勉励しても一体何の役に立とうか。おそらく、モーツァルトは、18世紀において、この2つのものが結びついた最も驚異的な実例であった」「哲学的観点から見れば、モーツァルトには、単に多くの卓越した作品、作者というよりも更に驚嘆するべきものがある。偶然が、これほどまでに一人の天才の魂をいわば、裸形にして見せたことはなかった」。「フィガロ読解」では「天才」は以下のように促えられています。「天才とは歴史的条件を超越する精神のことではない。むしろ歴史的条件に深く規定され養われつつ、その歴史的条件それ自体の可能性を徹底的に生き、それを至高の表現に与える人間こそが天才と呼ばれるにふさわしい。だとすれば、モーツァルトは間違いなく天才であった。」とし、「…というのも、これまでの議論から容易に推測されるように《フィガロ》において典型的な形で現れている『多様性を内に孕んだ統一性』『一体性のなのに生き続ける多様性』は、ルソー・カント的『啓蒙のプロジェクト』の到達点としての〈共和国〉という討議的空間の思想と根底において繋がっていると考えられるからである」。
 言われている「多様性を内に孕んだ統一性」「一体性のなかに生き続ける多様性」は、第3幕、第5場の、アルマヴィーヴァ伯爵、フィガロ、バルトロ、マルチェリーナ、ドン・クルツィオ、そしてスザンナの「6重唱」で、それが実現されています。「最初は、硬貨2000を取りに行っているスザンナがいないから、5重唱である。歌い始めるのは、わずかな情報をもとに、直ちにフィガロを息子だと悟ったマルチェリーナだ。『この抱擁で分かっておくれ/母親と、愛する息子よ』は、優しさをたたえたフレーズだが、控えめで、どこか恥ずかしさを隠している。今までの激しい対立関係を思えば当然だろう。フィガロとて同じだが、母親とは違って彼は、恥ずかしさを言葉に表している。『ぼくのお父さん、同じようにしてください。/これ以上ぼくを赤面させないで』と、言っているのだから。休符を挟んで、やや途切れ途切れに出る言葉にも気まずさが感じられる。次に入るバルトロの『良心からして抗しえない/もうそのおまえの望みに』の口ごもるような印象を与える音型にも、同じ気まずさが込められているだろう。しかし、わたしをもっとも驚かせると同時に心地よく刺激するのは、父、母、息子の3人がいずれも感じているこの気まずさ、恥ずかしさを、装飾音を多様したオーケストラの伴奏が驚くほど的確にかつ繊細にとらえていることである。心のなかに疼く小さな異物が素直になりきることを妨げているのだが、その誠に微妙な感覚がわたしには単純極まりない装飾音の反復によって表現されているように感じられる」「他方、アルマヴィーヴァ伯爵とドン・クルツィオの感情は全く異質である。…アルマヴィーヴァ伯爵は、またしても事が思い通りに進行しないことに驚き、困惑している。下降するモチーフは、落胆を表しているのだろう。事実認識と苛立ちが、今や恥ずかしさから解放されて抱擁し合い『愛する息子よ!』。『愛する両親!』と呼び合う3人の音楽の中に融合されているという驚異!これもまた、多様性を内に孕んだ統一性、一体性の中に生き続ける多様性の雄弁な一例に違いない」(「フィガロ読解」完読の誕生―対立関係の解消)。
 で、更に改めて「歌劇〈フィガロの結婚〉」(ベルリン・ドイツ・オペラ、指揮:カール・ベーム)のCD、カール・ベーム指揮のウィーン国立歌劇団のDVDを、聴いたり、観たりの「学習」をしています。「フィガロ読解」によれば、前掲の読解、その言葉は「フィガロの結婚」で、音楽の「音」として、モーツァルトが完璧に実現していることになります。
 「優しき」「控え目」「恥ずかしさ」「激しい」「赤面」「途切れ途切れ」「気まずさ」「良心」「口ごもり」「驚かせる」「心地よく刺激する」「的確に」「繊細さ」「疼く」「異物」「素直」「微妙な感覚」「困惑」「落胆」「苛立ち」そしてこれらが「融合」されていることの「驚異」。
 たぶん、こうした事柄を、随一の指揮者(カール・ベーム)、歌い手(グンドゥラ・ヤノヴィッツ)で聴いても、その多くが言われているほどに響いてこないのは、これら名作を聴いたり観たりする経験の不足はもちろん、観、かつ聴き取る力が足りないからに違いありません。もっと聴いて、もっと観てモーツァルトに驚いて、更に、もっと聴いて、もっと観るしかないのです。モーツァルト当人であれ、その音楽を指揮するカール・ベームであれ、それを歌うグンドゥラ・ヤノヴィッツであれ「能うかぎり」音楽に惚れ込んで極めぬようとした人たちに違いありません。「フィガロの結婚」は、「耳を澄まし、眼を凝らし」て向かい合う作品・世界なのです。
 「モーツァルト」に付されている、同じスタンダールの「モーツァルトについての手紙」は前掲の「天才」に続け「…かつてモーツァルトと呼ばれ、今日イタリア人が『あの怪人じみた才人』と異名を与えているこの驚くべき存在において、肉体の占める部分は能うかぎり少なかった」と書きます。同じように付されている「モーツァルトの生涯と作品に関する略述」で、「モーツァルトはほとんど無数と言ってよいほど多くの歌曲・劇唱・交響曲および、ミサ曲を残したが、ミサ曲の中でも最も有名なのは『レクイエム』である。彼は、自分自身の葬式のために書いているのだと信じてこれを作曲した。予感は的中した。彼は、死の使いが一老人に身をやつして、自分にこの作品を注文しに来たのだと固く信じていた」と書かれています。1776年に生まれ、1779年12月5日、36歳で死んだモーツァルトはその「…肉体の占める部分は能うかぎり少なかった」36年を「能うかぎり」音楽で生き、音楽で死んだ人だったのです。
 だとすると、モーツァルトの音楽に出会う人は、そんなものが今、自分の前に残されていることに謙虚であるよりないはずです。(この項続く。次回は、ルソー・ヴォルテールなど、同時代ないし前後の時代を生きた人たちの思想からモーツァルトの作品の意味を「勉強」することになります)。 height=1
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