ダ・ポンテが台本を書き、モーツアルトがオペラに仕上げた「フィガロの結婚」の原作は、時代が少し前のフランスの作家ボーマルシェの「狂おしき一日/またはフィガロの結婚」です。ボーマルシェの「フィガロの結婚」{以下「結婚」}を読んだモーツアルトが、自分の曲でオペラにしたいと思い、台本作家であるダ・ポンテにそれを依頼しました。
「・・・わたしは、モーツァルトの計り知れない能力が、大きく、ヴァラエティに富み、崇高な劇の主題を要求しているということがすぐにわかった。ある日、彼とおしゃべりをしている時のことだが、彼がわたしに『フィガロの結婚』というボーマルシェのコメディをオペラにできないかと訊いてきた」(前掲「フィガロ読解」プロローグ)。
で、当然、モーツァト、「フィガロの結婚」の「勉強」は、そのもとになった「結婚」にも及ぶことになりました。
たとえば、ウィーン国立歌劇場日本公演1980年、カール・ベール指揮「フィガロの結婚」DVDの第8場、第26番「レシタティーヴォとアリア『これでいい、さあもうすぐだーさあ目をあけろ』」をフィガロは以下のように歌います。
用意はできた、時は
刻々と近づく、人が来たようだ・・・
彼女は・・・いや違った・・・暗い夜だ・・・
そして、この俺が今から
亭主の愚かな
仕事を始めなきゃならんとは・・・
恩知らずめ! 俺たちの
結婚式の夜に・・・
俺は手紙を読んで楽しんでいたのに
俺は彼を見ていながら
何も知らずに笑っていたんだ。
ああ、スザンナ、スザンナ、
お前はとんでもない苦悩を俺に与えたもんだ!その素直な笑顔で・・・
お前がこんなことをすると誰が信じたろうか!
ああ、女を信用し過ぎると、いつもばかをみる。
目を大きく見開きたまえ
節穴の目をした愚かな男どもよ。
この女どもをよく見てごらん。
ここにいわれている女神とは
裏切ることを何とも思わず
か弱い理性の持ち主は
彼女にみつぎ、へつらう。
女とは男を苦しめるために
魅惑する魔女であり
俺たちを溺れさせるために
歌を歌う海の精だ。
羽毛を引き抜くために
そそのかすフクロウであり
光を遮るために
人目を射とおす夜ばい星だ。
とげあるバラであり
愛嬌をふりまく狐であり
おっとりした牝熊であり
意地悪い鳩
人を欺く天才であり
偽り、ごまかし
愛も感じない
憐みを感じない
苦悩の友だちだ。
それ以上は言うまい
もう誰でも知っていることだ
そもそもこれが「フィガロのレシタティーヴォとアリア」と言われてもその言葉の意味もちんぷんかんぷんなのですが、しかし、カール・ベーム指揮の、ベルリン・ドイツ・オペラのCDで、ヘルマン・ブライの歌うのを聞くと、聞くほどにその「怒り」が音楽の中で一人の人間の生きた声として聞こえてくるような気がします。「…まず、指摘すべきは、このアリアがレシタティーヴォ・アコンパニャート付きのアリアだということである。18世紀のオペラでレシタティーヴォ・アコンパニャートを歌うのは神々、国王、貴族に決まっていたということはすでに指摘した。百姓や奉公人にこの形式が与えられるということはあり得ないことだった。ところが、そのとうていあり得ないことを、モーツァルトはここで平然とやってのけているのである。同じことはすぐあとに控えているスザンナのアリアについても言える。奉公人の男の心に宿る感情の世界が貴族のそれに少しも引けをとらないということであろう。モーツアルトは音楽の力によって彼を一挙に貴族の水準まで引き上げ、両者のあいだの完全な平等を示しているのだ」(「フィガロ読解」)と言われている、フィガロのアリアの口上の元になっているのが、「結婚」の第五幕場第三景の「独白」です。そして独白は、オペラのフィガロのアリアに、冒頭及び最後の部分は対応するように「ああ、女、女。女。弱くって・・・」「シュゾン(「結婚」では、シュザンナではなく”シュゾン“)シュゾン、シュゾン!何でこうまで俺を苦しめるんだ!」となっていますが、長い独白の大半は、その生まれとそれまでの生涯を見事に分析しながら語る自伝です。「この僕は・・・名もない群像の中に呑み込まれ・・・」と言いますが、そうしてフィガロが独白しているのは「・・・すなわち『名もない群像』がひしめく『社会』という広大な領域で積み上げられた経験の数々」(「フィガロ読解」)ということでは、主人である貴族の絶対的権力を超えてしまっています。更に、独白するフィガロは「孤児」として生きてきたのですがそこにはそれを超える普遍性が語られています。「孤児、すなわち家族を持たず、それゆえに家族の外に拡がる〈社会〉にあらかじめ放瑯されてしまった孤独な個人というテーマは〈社会〉という場においておのずと析出される彼の歴史とそれを語る言説の条件をなしているという意味において、計り知れない重みをもっているように思われる」(「幸福への意思」第三部「フィガロの結婚」の世界観)。「独白」は、18世紀後半の、ウィーンの、王・貴族社会のオペラ作品にそのまま台本とすることはできませんでしたから、ダ・ポンデの台本では前掲のフィガロのアリアの形になりました。ほぼ削除したことになります。しかし「フィガロ読解」では、ダ・ポンデの台本にはない、しかし原作のボーマルシェにあるフィガロの「独白」は、モーツアルトの音楽的奇跡によって表現されていることを聞き、かつ読解します。
もちろん、それがいわゆる奇跡ではなく、モーツアルトが「音で思考する」その力で、ボーマルシェの「フィガロの結婚」を読み、更にそれを「音楽的に彫琢」した時に、オペラ「フィガロの結婚」になったのです。
ボーマルシェの「結婚」は、全10節からなる9人のオペラの登場人物のヴォードヴィル(小唄入り喜劇の“小唄”)がはめ込まれていて、「結婚」ではその最後の最後に「総員踊る」となっています。その第七節は、オペラの登場人物ではなく、どうやらボーマルシェが大好きだったヴォルテールに献げられています。
第七節
氏と素性の 違いから
王侯貴族か牛飼いか
そのへだたりは 運次第。
世を動かすは 知恵次第。
人のへつらう 王たちも
死んでしまえば ただの人
名を残すのは ヴォルテール
これは、オペラ「フィガロの結婚」では、そこに集まった全員で歌う歌の中に集約されていると考えられています。
ああ、みんなは
これで満足するでしょう。
苦しみと
出来心と狂気で過ごしたこの一日を、
満足と喜びのうち終わらせることが出来るのは
ただ愛だけ。
花婿花嫁も、友だちも、踊りに遊びに、
花火をあげて
楽しいマーチの音にあわせて
みんなでお祝いをしに行きましょう。
と歌う、そこにいた「全員」は、オペラで固有名詞を与えられた人たち全員であるのはもちろん、伯爵が「皆の者、武器を取れ」という「皆」、「皆の者、手を貸してくれ、手を!」と呼びかけられる「召使たち」も含めた全員です。「今や、私の耳の奥では、全員が『ああ、誰も皆、これで満足できよう』と唱和する際の、あの崇高な・・・内的結合力に満ちた音楽が鳴り響いている(楽譜90)。すべての対立関係が解消された後に出現した一つの共同体。松明の灯りに照らされた人々は彼らの身分や年齢や性を表出するあれこれの差異的特徴をふたたび外見的な符牒として露呈し始めるが、そのことが彼らを分断する気配は少しもない。それどころか、ここでは、貴族も、奉公人も、男も、女も、老人も、若者も、それぞれの当初の、そしてとりあえずのアイデンティティを保持したまま、ひとつの崇高な全体のなかに溶け込んでいる」。
このことは、別の言い方で「多様性を内孕んだ統一性」「一体性のなかに生き続ける多様性」としてとらえられてきましたが、それがモーツアルトの音楽、たとえば「フィガロの結婚」で具体的に実現していることの根拠や意味を、「フィガロ読解」は「ソナタ形式」に求めています。「ソナタ形式は基本的に、提示部、展開部、再現部の三つの部分から成る」「ソナタ形式が『対立を経て和解に至る形式」であるということである」。「・・・音楽は彼らを差別化していない。彼らに共通の人間性を与えているだけである。その意味で、アグアス・フレスカ(「フィガロの結婚」の伯爵の城)の城の庭には、すでに、ひとつの紛う方なき<共和国>が誕生していると言えるだろう。視覚の無力によって外見的な符牒が機能しなくなった暗闇のなかで人々は存在へとうながされ、声をとおして現れる人間性の発見へと導かれていった・・・」(「フィガロ読解」)。
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