「たなばた」
「エルシー・ピドック、ゆめでなわとびをする」
「クリスマス人形の願い」
「星座を見つけよう」
「へいわってすてきだね」
子どもたちと、一年に一度だけしか読まない絵本があります。「たなばた」(君島久子再話、初山滋画、福音館)です。今から54年前の1963年7月に、福音館書店の月刊こどものともとして発行され、1977年に「こどものとも傑作集」として単行本になり、今も出版されている絵本です。
「たなばた」は、たなばたの物語、絵本としては、それはそれは見事に、その物語の“真実”を、子どもたちに伝えているように思えます。たなばたは、おりひめと、無名の牛飼とその2人の子どもの物語です。年とった牛と暮らしていた牛飼に、牛がある日突然、人間の言葉で話しかけます。「…いま、てんにょたちが あまのがわへ みずあびにきます。そのなかの おりひめの きものを かくしてしまいなさい」。そうして「かくして」奪った結果、飛べなくなったおりひめは、牛飼いの世界で結婚することになり、2人の子どもが生まれます。牛飼いとおりひめと生まれた2人の子どもの平和な生活を、「おうぼさま」は許しませんでした。おりひめは「てんのつかいに つれられて てんへ かえって」しまったのです。もちろん、3人は、おりひめを追いかけますが、そこにあった天の川を、おうぼさまは、天に引き上げてしまいます。そんな事実を悲しんで泣いている3人に、年とった牛が、希望の光をともします。「…なくのは およし。 わたしが しんだら かわを はいで、きものを つくりなさい。それを きれば、てんまで のぼっていけます」。牛の皮の着物を着た牛飼と2人の子どもは、天にのぼり、天の川のそばまでやって来ました。渡れなくはない川でしたが、おうぼさまは、「みるみるうちに、ごうごうと なみの さかまく あまのがわ」に変えてしまいます。抱き合って泣く3人のうちの女の子は、「川の水をくみ出そう!」と、あきらめませんでした。「とうさん、このひしゃくで くみだしましょう。このかわのみずが なくなるまで」「そうだ。あまのがわを くみほそう」。で、天の川くみ出し大作戦が始まる、というのが絵本の「たなばた」です。騙して手にした平安は、もちろん長くは続きませんでした。そんな時に、手助けをするのが、牛飼の牛です。騙す助言をした牛です。そうして提案されるのが、牛の命を代償にした、希望の光です。騙した結果の平安であってみれば、それを失うのはあり得ることでした。その時に、命を代償に牛が提案するのが「…わたしが しんだら、かわを はいで、きものをつくりなさい」です。
「騙し」で始まった「たなばた」は、物語が先に進む為には、誰かの命が代償になるよりなかったのです。牛の皮の着物を着て、天の天の川までたどり着いた3人を、もう一度おうぼさまは退けます。どうすることもできない3人は「だきあって なきました」。しかし、そこまでたどり着いた3人は、泣いてあきらめる訳には行かなかったのです。騙すことから始まった平安とは言え、たとえば牛の命の代償もあってそこまでたどり着いた3人であってみれば、ひしゃく一杯から始まるささやかな一歩を惜しむ訳には行かなかったのです。誰か(「たなばた」の場合は“おんなのこ”)がそのことに気付いた時、その言葉は共有されなくはないのです。
騙して、命を代償にして約束された牛飼いと2人の子ども、おりひめとの再会は、しかし、年に一回、空高い天でしか実現しません。
絵本の「たなばた」は、騙したり、死んだり、泣いたりと、切実な物語ですが、初山滋の絵は、そんな事実をそのまま描きません。直接的ではなく、色彩をあわくすることで、強く押し出すのでもない絵は、子どもたちに「真実」を印象深く心にきざませる、働きをしているのです。
絵本「たなばた」を、幼稚園の庭に大きな竹が立つ頃に、受けとめられる限りの思いを込め、子どもたちと一緒に読んできました。それは、一年に一度だけの一冊の絵本です。
そんな、一年に一度だけの絵本だと思っているのが「エルシーピドックゆめでなわとびをする」(エリナ・ファージョン、岩波書店)「クリスマス人形のねがい」(ルーマー・ゴッデン、岩波書店)です。これらの絵本は一年に一度だけにしておかざるを得ない理由は、その絵本が長い長い物語であることです。
30分以上読み続ける覚悟がなくては読めないのです。子ども時代の、一瞬、一瞬に心が揺れ動く、その繊細な心の動きを、言葉と絵の物語にするとすれば、一つの到達点として、「エルシーピドックゆめでなわとびをする」「クリスマス人形のねがい」のような絵本になってしまうのです。しかし、これらの物語に強い感心を持ち、いつかどこかで、必ず子どもたちと物語で、共感する時間、場所が現実に存在することを信じられるのだとすれば、30分を超える読書体験を一緒にすることに、違和感は持たないのです。
「たなばた」の星、こと座のことはもちろん、空の星と星座のことに、違和感なく入って行くきっかけを作ってくれるのが「星座を見つけよう」(H.A.レイ 文・絵、福音館)です。星座には、一つ一つに物語があって、物語と出会ってその星座の一つ一つが身近になります。古代人が星を見上げ、星と星はつながっていることを「発見」して生まれた物語です。その星座を、今見つけたいという子どもたちの願いを「星座を見つけよう」がかなえてくれます。「たなばた」の星座は「こと座」です。
「こと座」に限りませんが、すべての星座の発見の「はじめの一歩」は、「北斗七星」です。「北斗七星」のひしゃくの先端をつないだ先で、北の方を見上げると必ず見つかる大きな星が「北極星」です。(ただし、「北斗七星」や「北極星」が見つかるくらいの広い空気の澄んだ空!子どもたちの沖縄のキャンプの今帰仁。篠山市後川は、西宮よりは空気が澄んでいますが、山間の集落で、空が狭い!)。たとえば、夏の空で、すぐに見つかる「北斗七星」のひしゃくの先端をつないだ先で、「北極星」が見つかると、その左上の小さなひしゃくが「こぐま座のこびしゃく」です。そのまま、上の方をたどった真上あたりに「星座を見つけよう」の「8月1日、午後9時ごろ」(P45)の星座を繰り返し見比べているうちに「はくちょう座」が確認できるはずです。その左上にある大きな星を中心にした「2本の糸をはった、小さなたてごとの形」を、古代のギリシャ人は、「こと座」と名付けました。「星座を見つけよう」は、ちょっとした好奇心と、ちょっとした根気があれば、星座の発見につながる星座の入門書です。
「へいわって すてきだね」(詩・安里有生、画・長谷川義史、プロンズ新社)は、6歳だった、与那国町立久部良小学校1年の安里有生くんが2013年の「平和へのメッセージ」(募集・沖縄県平和祈念資料館)に応募し、優秀賞になった詩が、長谷川義史の絵で絵本になりました。
へいわって なにかな
ぼくは、かんがえたよ。
おともだちと なかよし。
かぞくは げんき。
えがおで あそぶ。
ねこが わらう。
おなかが いっぱい
やぎが のんびり あるいている。
けんかしても すぐ なかなおり。
ちょうめいそうが たくさん はえ。
よなぐにうまが ヒヒーンと なく。
みなとには フェリーが とまっていて、
うみには かめやかじきが およいでる。
やさいいこころが にじになる。
へいわって いいね。
へいわって うれしいね。
みんなのこころから。
へいわがうまれるんだね。
せんそうは おそろしい。
「ドドーン ドカーン」
ばくだんがおちてくる こわいおと。
おなかがすいて。くるしむこども。
かぞくがしんでしまって なくひとたち
ああ、ぼくは、へいわなときにうまれてよかったよ。
みんなのえがおが ずっとつづいてほしい。
へいわな かぞく。へいわな がっこう。
へいわな よなぐにじま。
へいわな おきなわ。
へいわな せかい。
へいわって すてきだね。
これからも、ずっと へいわがつづくように。
ぼくも ぼくのできることからがんばるよ。
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