倫理(学)は「道徳とは何か、善悪の基準を何に求めるべきかなどを通して社会存在としての人間の在り方を研究する…」(新明解・国語辞典)ぐらいのことを、漠然と考えてみることはありました。今、倫理学の書物を少し読んでいます。きっかけは、未来社の季刊の雑誌「未来」の表紙の隅っこに「環境倫理学は、あらゆる戦争が不合理であること、戦争の、回避こそが社会性の究極の原理であることを告げている。人類の存在理由はすべての生命に対する責任を果たすことである」を見つけ、ほぼ全く納得できたこと、その文章を書いているのが哲学者・加藤尚武(かとうひさたけ)で、手に入る書物から読み始めています。「子育ての倫理学/少年犯罪の深層から考える」「応用倫理学のすすめ」(いずれも、丸善ライブラリー)です。倫理(学)は、前掲の辞書的な理解ぐらいに止まっていましたが、読み始めているいくつかの「倫理学」の書物は、いわゆる概念、理論の押し付けではなく、生きた人間が生きた人間と出会い、お互いに了解しながら生み出していく人間の在り方であったりします。例えば、以下のような具合に。「…言うことを聞いたらほんとうの自動車を買ってあげるとか、言うことを聞かないと公園に棄てて犬に食べさせてしまうとか、取引とか、脅しとか、どうせ嘘だとわかって後で効き目がなくなるような、当座の駆け引きで子どもを思い通りにしようとすることは、子育てを泥沼化するだけである。しかも、子どもの心には大人は騙したり、脅したりするという評価が生まれる」(「子育ての倫理学」)。倫理は、それを求める者にこそ、何よりも問われているのです。
「応用倫理学のすすめ」では、倫理学の課題を以下の3点に要約し、12章(項目)の応用の実例を語っています。
・どのような合意が働いているか。それを発見し、分析することは倫理学の課題である。
・どのような合意ならば安全か。それをチェックすることは倫理学の課題である。
・どのような合意なら最善であるか。それを提案することは倫理学の課題である。
「ポルノグラフィーについて、欧米では『それを見たいと思う人にだけ目をふれるようにしなければならない』という不快物非合開(offense to others)の原則が守られている。これが大人の常識なのだ。日本では、ヘアヌードがいつのまにか『自称芸術』になって店頭に並んでいる。」(1章 ヘアヌードと他者危害の原則)
「今回の場合、『明らかに過剰防衛である』として日本政府がアメリカ政府が、どのように処理するにしても、良識あるアメリカ人は日本という国家への信頼感を高めると思う。そのとき、個人に自己防衛権が存在しないかのような主張をすれば、世界中の笑いものになるだけである。」(2章 留学生射殺事件の無罪判決)
「『エイズ患者に患者であることを隠す権利を認めよう』という方針は間違いで、『エイズ患者が、患者であることを隠す必要のない社会を作ろう』というのが正しい方針だ。『隠すことによる権利の擁護』というシステムは、本来便宜的なもので『隠す必要のない権利の擁護』が本質的に正しい。」(3章 エイズ患者のプライバシー)
「アトミズムの存在論が、倫理的個人主義を支えるのではなく、共同性と伝統の存在論が、個人主義と自由主義を要求する。人間は隣人との共同、伝統の継承、未来への責任のさなかにいる。個の存在と自由とは、その人間の根源的な要求なのである。アトミズムの射影なのではない。」(4章 子どもの名前と自己決定権)
「これまで人類の社会が、なんとか命脈を保ってきたのは、成人となったら、事実上の判断能力の有無に関係なく決定権を認めるというタテマエが働いていたからである。平等という観念が昨日するためには、判断能力の有無の判断には実質的な基準を導入しないという形式的、消極的なやり方が必要だったのである。だからジリック裁判が生み出した傾向が全面化するならば、また別の弊害が生ずるものと予測しておいた方がいい。」(5章 何歳になったら親に内証で人口中絶をしてよいか)
「あらゆる人間が多数決による決定をするに当たって、少数者が構造的に不利益になっていないかどうかを反省する必要がある。個人の自己決定権の範囲を決定するものは何かという問題について、それは多数者の承認であるという事実関係が存在するが、その決定が多数決制度の構造的な欠点から免れていないという保証はいまのところない。」(6章 代理母は許されるか)
「死の文化の古典的原則は、こうだった。『運命によって避け難く死ぬことには、諦念を持つべきだ。人為によって死を招くことは絶対に許されない』。
ところが、われわれの向かっている死の文化では、『運命によって避け難く死ぬことは極めてまれな例外である。人為によって死を招くことによってしか、安らかな死は得られない』という原則が支配しているように思われる。」(7章 安楽死と尊厳死)
「死刑制度を廃止することよりも、一つ一つの事例について、慎重な判断を積み重ねていくことが大事であって、私はふと自分も大罪を犯すかもしれないと思うとき、死刑を願い出るという最後の救いを残しておいて欲しいと思う。」(8章 死刑廃止論)
「この問題のなかには、法の前での平等ということの新しい形が見えてきている。社会的な偏見のために弱者の立場にある人々を法的に保護するときに、『抵抗しなかったから同意と見なす』というような形式主義ではなくて、その弱みにつけ込むところを逆手にとるような法的な評価を確立することなしには、実際的な弱者救済はできないのである。」(9章 セクハラで大事なのは使用者の責任)
「ちょうど政治資金規正法を作るときにザル法にしておいたのと同じ知恵が働いている。しかし、このザル法によって日本の政治は一時しのぎの安定を得たかもしれないが、長期的に見れば結局は大混乱をまねき、政治の力を弱めてしまったのだ。
日本の製造業の体質を強化しようと思うならば、ザル法ではない『製造物責任制度』を確立しなければならない。それはハイテク時代を生きるのに必要な制度なのだ。」(10章 ハイテク社会と製造物責任法)
「内部調整システムそのものに故障が起こったとき、自動的に自分を取り戻すことができなくではならない。ユーゴスラビアで起こっていることを見ると、もっとひどくなる前に内部調整能力を回復しないと永遠に回復できなくなる限界が存在するように思われる。」(11章 公正の概念とアファーマティヴ・アクション)
「種の保存は人類の義務だが、固体としての生物の保護は個人の善意にまかせるべきで、他人に強制できないというのが、大筋で最も正しい考え方だろう。逆に人間以外の生物に固体レヴェルで生存権を認めると、たとえば知能の高いチンパンジーの生存がアルツハイマー病の患者よりも優先するとか、移植臓器が不足したら知能指数の高い人に与えるべきだとか、人間の生存権に差別が持ち込まれてしまう。この差別を避けるためには、人間はすべての個体に、他の生物は種に生存権を与えるという基準がどうしても必要になる。」(12章 鯨は食べてよいか)
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