子どもたちの沖縄キャンプの3日目(金)に、キャンプシュワブのゲート前で座り込みをしたり、雨などでテントで待機している人たちを訪ね歌ってきました。その時のことが、翌日の地元の新聞に掲載されていました。「ゲート前には兵庫県西宮市の小学校5年生から高校3年生までの子どもたちと沖縄の子どもたちや引率者約20人が訪れ「弥勒世果報」など3曲の歌を披露し、集会に参加した市民を沸かせた」「名護市辺野古の米軍キャンプシュワブのゲート前では4日、約40人の市民が米軍普天間飛行場の移設に抗議した」「キャンプシュワブのゲートからは、砕石などを積んだ車両延べ141台が基地に入った。市民は『違法な行為はやめろ』『新基地は造らせない』などと座り込んで抗議したが、機動隊によって排除された」(8月5日、琉球新報「辺野古・強行の現場から/辺野古問題取材班」)。
子どもたちがテントで歌った時に居合わせたのが、去年キャンプ場まで訪ねて下さった、富樫守さん、小橋川共行さんでした。富樫さん夫妻は沖縄の「ぜんざい(冬に食べる温かいものではなく、沖縄では氷菓子のこと)」、小橋川さんは、すいか、パイナップルを持って、今年もキャンプ場まで訪ねてくださいました。そして、富樫さんは埋め立てている辺野古、大浦湾のこと、小橋川さんは毎日辺野古に通って座り込みに参加していること(うるま市から)をキャンプの参加者に話して下さいました。
富樫さん(お父さん、お母さんが沖縄出身、神戸生まれ、神戸育ち、神戸大学)は、神戸でしばらく高校の教師をした後、沖縄に帰り定年まで県立高校の社会の教師をしていました。辺野古での新米軍基地が始まった為、60代になってカヌーの練習をし、「カヌー隊」の一員として海に出ています(その富樫さんと40年以上前に出会っていたことが解り、交流が始まっている)。
富樫さんは、カヌー隊の人たちの写した写真で大浦湾の生きものたちのことを紹介してくださいました。
世界で最も種類が多い(あのグレート・バリア・リーフよりも!)と言われるのが、大浦湾のサンゴです。色とりどりの本物のサンゴを見てもらえないのは残念だとおっしゃりながらの写真による大浦湾の海の中のサンゴの紹介でした。生きたサンゴの森は、生きものたちの共生の場所で、サンゴによって生物の多様性も守られています。辺野古(大浦湾)の海の埋め立てに反対している人たちは、日本だけではなく世界の自然を守る働きに感心のある人たちによって集められた募金で、“グラスボート”を持っていて、海の案内もしています。2日からのキャンプで、グラスボートに乗せてもらうこともお願いしていましたが、台風5号の影響で船を出してもらうことができませんでした。台風は、辺野古の海のサンゴたちにとっては、大切な自然の営みです。と言うのは、台風で海が荒れ、大きな波が海水をかき混ぜることで(海面と海中)、温度が上がりすぎることからサンゴを守る働きをするのです(高い山がない沖縄では、台風が運んでくる雨が人々の生活用水になっているのと同じ)。
辺野古、大浦湾を代表するもう一つの生きものがジュゴンです。中でも、サンゴの海の大浦湾は、ジュゴンが食べる“藻場”が広がる海です(沖縄の言葉で、ジュゴンは“ザン”ジュゴンの食べる藻は“ザングサ”)。4頭が確認されていた北限の沖縄のジュゴンは、近年3頭と言われていて、そのジュゴンがザングサを食べた、食べあと(はみあと)が、最近見つからなくなっているのだそうです。工事用の船が行きかい、工事用の巨大ブロック、工事用の網などが大浦湾の海中に投下されていることと関係があるのかも知れません。
そんな自然の生きものたちの海、そんな自然の中の一つの生きものが人間であることを、富樫さんは大浦湾の生きものの写真で紹介して下さいました。
小橋川さんは定年まで小学校の教師として働いてこられました。社会人のスタートは銀行員でしたが、教師に転職し、沖縄でも地方の小規模の小学校の現場の教師をしてきました。陶芸など、いくつかの趣味があり、定年後はそれらのことをのんびり楽しみながら取り組みたいと思ってきましたが、2014年に辺野古での新米軍基地建設が始まり、それらのことをすべて棚上げし、朝は車で40~50分、帰りは1時間30分くらいのうるま市から、ほぼ毎日辺野古の座り込みに参加しています。その小橋川さんに、辺野古の座り込みの現状を話していただきました。
「沖縄で戦争を体験した人たちは、自分(の家族)も含め、2度と戦争があってはならないと思っています。戦争はよくないのです。戦争の基地を作らせない為に、辺野古に通っています。自分の孫たちに戦争の域を作らせない為に頑張ったことを、言いたいので辺野古に通っています。基地の工事は始まっています。毎日、たくさんの工事用車両が基地に入っています。止めたいのですが、止められないでいます。残念です。止められないけれども、頑張っていることを、解ってもらえるかな?」というのが、小橋川さんの自分と子どもたちへの問いかけとして聞こえました。なぜそれが沖縄で、なぜ座り込みで、なぜ自分なのかについてか語る自分と、聞き手である子どもたちに、充分に伝えきれない自分での“もどかしさ”が感じられました。
で、“なぜそれが沖縄なのか”“なぜ沖縄の人たちは座り込むのか”について、少しばかり口をはさむことになったが、以下のような内容です。
沖縄の人たちが、辺野古、大浦湾に基地を作って欲しくないのは、生きものたちの自然の海を壊してはならないと考えるからです。それは、ほとんどの沖縄の人たちの意志です。同じように海を埋め立てる工事が、「美しい景観を破壊するものだ」ということで日本の別の地域で中止・断念となった例があるにもかかわらず、沖縄ではそれが認められないで、強行されています。で、止むに止まれず始まったのが、沖縄の人たちの辺野古での座り込みです。前掲の「美しい景観を破壊するものだ」で埋め立てが、中止・断念となったのは、広島県福山市鞆の浦でのことです。
「本年(2016年)2月15日、広島県からうれしいニュースが届いた。宮崎駿監督のアニメ映画『崖の上のポニョ』のモデルとなった福山市鞆の浦で、懸案となっていた海の埋め立てを正式に断念すると広島県知事が発表したのである。鞆の浦の埋め立ては、1983年、渋滞解消を目的に、鞆港沿岸約2ヘクタールを埋め立て、海上に長さ約180メートルのバイパス橋を架けるという計画から始まった。これに対して住民は、ここは万葉歌人大伴旅人が風景の美しさを歌に詠んだ場所であり、鞆港には近世の港湾土木遺産を示す常夜灯や雁木などがすべてそろっている、海を埋め立てるのはこの美しい景観を破壊するものだなどとして反対していたが、計画から二十数年ぶりにようやく解決したのである。なぜこのニュースを冒頭に持ってきたかというと、鞆の浦のケースは同じ公有水面の埋め立てが争われている沖縄県辺野古のそれと、全く異なる方向をたどっていると思われるからである。
双方どこが異なるのか。端的に言って、鞆の浦では、前知事によっていったん承認されそうになった処分に対して住民が県を相手に事前の差し止めを求めて提訴し、後任の知事が承認を断念したという経過をたどった。辺野古でも、裁判を経由(辺野古でも住民が仲井間知事を訴えている)しながら前知事の処分を後任の知事が取り消したという点では鞆の浦と同型である。しかし、辺野古ではこれで終わらず、今度は国が県を訴えるという逆回転が起こった。」(「公定力理論」という「空洞の権威」/辺野古「代執行裁判」と国の主張、五十嵐敬喜、世界2016年4月号、岩波書店より)
鞆の浦では「美しい景観を破壊するものなどとして反対していた(公有水面の埋め立て)」住民の訴えを裁判所が認め、広島県は埋め立て工事を中止・断念することになりました。ほぼ同じ理由で、同じように「公有水面の埋め立て」に反対している沖縄の人たちの訴えは、相手である国、裁判所はしりぞけました。鞆の浦でも辺野古でも、たとえば自然の景観をめぐって同じように埋め立ての正当性・合法性が争われたのですが、鞆の浦では認められたことが辺野古では認められなかったのです。今、自然の景観は、多くの地域の多くの場所で、それを破壊することは近年ますます許されなくなっています。むしろ、小さな自然の営みであっても積極的に守ることが普通になっています。かつて、治水として称して町や村の小さな川も、“三面”がコンクリートで固められたりしましたが、それを元に戻す取り組みも始まっています。そうだとすれば、富樫さんが紹介した、辺野古、大浦湾の自然は積極的に守ることがあっても、破壊すること(新米軍基地を建設する)は、あってはならないはずです。
しかし、鞆の浦では認められたことを、直接、具体的に言及し反論することをせず、別の理由で、沖縄・辺野古では埋め立てを認め工事を始めてしまいました。景観、自然を敢えて破壊しても米軍基地を沖縄に建設するのは国にとって必要だというのです。国にとってどうしても必要だったら、沖縄以外で建設して欲しいという、沖縄の人たちの願いに耳を貸すことはありませんでした。(以上、前掲の新聞記事のように排除されながら、それでも次の日もまた次の日も辺野古に通い座り込みを続ける小橋川さん(そして富樫さんたち)の言葉に、少しばかり付け加えることになりました)。
いずれにせよ、富樫さんにせよ小橋川さんにせよ、国、政治の理不尽を目の当たりにして、憤りを激しく口にされるということはありませんでした。全く逆で、恥ずかしそうに静かに語る人たちなのです。「…ごく普通の人間像が、たとえば須崎文造や有郷きくや梅田トミを見てもわかるように、なぜに風土の陰影を伴って浮上する劇のように美しいのか、そのような人間たちがこの列島の民族の資質の最も深い層をなしていたことは何を意味するのか、そこに出自をもっていたであろう民族の性情は今どこにゆきつつあるのか。その思いは死せる水俣の、ありし徳性への痛恨と重なり続けているのである。そのような者たちが夢見ていたであろう、あってしかるべき未来はどこへ行ったのか。あり得べくもない近代への模索をわたしはつづけていた」(「西南役伝説」石牟礼道子、朝日選書)。
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