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2017年09月02週
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三宅島は「20年に1回」噴火を繰り返してきた島です。
三宅島の子どもたちとの交流にご協力をお願いいたします。

 三宅島は2000年6月26日に噴火し、噴火、火山性地震を繰り返し、9月2日、3日、4日にかけ全島民が避難することになりました。この全島民の緊急避難に先立ち、高校生以下の子どもたち359人(小学生140人、中学生106人、高校生113人)は、廃校になっていた多摩地域の全寮制の秋川高校で、寄宿生活を送りながら2学期を迎えることになりました。その時以来、兵庫県南部大地震ボランティアセンターは、兵庫教区・被災者生活支援・長田センターと協力し、主として避難している子どもたちを支援してきました。2000年のクリスマスに届けたのは、避難している子どもたちが、別に避難している家族を訪ねたりする時に役立つよう、一人一人にJRの乗車カードなどを届けました。このささやかな支援は、2001年には3月、5月、そしてクリスマスのころに、少しは励ましになることを願い、心ばかりのものを届けました。
 2004年2月、三宅島は全島避難指示が解除されました。全島避難から、避難解除、そしてそれから後も、兵庫県南部大地震ボランティアセンターは、被災者生活支援・長田センターと協力し、ささやかですが、三宅島の子どもたちの応援を続けています。2016年のクリスマスには、翌年の干支の酉200人分、そして篠山市後川のはぜとうもろこし(ポップコーンになる!)とその為の機械を、保育所、小学校、中学校、高等学校に届けました。
 三宅島は、火山の噴火を繰り返してきた島です。必ずしも正確な統計ではありませんが、およそ2000年間に108回の噴火が起こっているとも言われています。
 2000年より前の噴火は17年前の1983年です。2000年の噴火は火山灰、および火山ガス(二酸化硫黄)でしたが、1983年の噴火では大量の溶岩流が島の南西・阿古地区を襲い海岸まで達し、住宅を焼き農地などを埋め尽くし、集落の約7割を焼失させました。それから、17年後に起こったのが、2000年の噴火です。
 兵庫県南部大地震ボランティアセンターは、被災者生活支援・長田センターと協力し、2003年、2005年に避難している三宅島の人たちによって結集された三宅島民連合会会長の佐藤就之さんを兵庫に招き、報告会を開催しました。その報告会「三宅島噴火被災地(現地)から/三宅島災害の長期に伴う島民の実態」「自然の力と人の知恵/2000年三宅島全島避難から帰島への道」は、ブックレットとして発行されています。
 2000年の噴火の時は、およそ3800人だった島民で、戻ったのは2546人(2017年9月1日現在の住民台帳)で、生活を再開しています。およそ20年に1回は噴火を繰り返すのが三宅島です。
 『20年に1回起こるようなところに、よく住んでいるね。』と、今度の災害を通じまして、ある学者は、『もう三宅島から全員、出なさい』『お金がかかってしょうがない』と。『20年に1回噴火するところに何故あなたは住んでいるの』っていうことでね、外から見ると言われるわけですが、実は住んでいる私たちにとっては、ものすごく別天地の場所なんです。みんな、島の出身者、働いている時には、仕事が島にありませんから、東京に出たり、関東周辺に出たりして仕事をしますけども、みんな定年になりますと、こぞって帰ってきます。もう忘れられないほどの、まさに自然と時間」「…義理と人情は欠かせない。何か貰ったら、もうすぐにその日にお返しをすると。それでいて、大変だ、大変だと言う。『大変だったら、止めなさい』と、反抗していつも母親と喧嘩をしていました。そういう島が、私は若さに任せて嫌いでしたけれども、よく考えてみますと、この避難生活3年目に入ってみますと、やはりそういうものが私たちの三宅島という島の生活を支えていたんだということが今にして、分かる訳です」(前掲、ブックレット、佐藤就之)。相互扶助の制度や習慣、核心が島の人たちの間に生きて残り、たとえ都会で過ごしても遂には帰る場所、それが三宅島なのです。「平等精神に満ちている」「優しい心の持ち主たち」の島・三宅島です。
 2000年の三宅島の噴火から17年、「20年に1回」の噴火を繰り返す、しかし、そこが「人間の居場所」であることを発信し続ける三宅島の子どもたちに、今年もささやかですが交流の印を届ける準備を始めています。
 ご協力をお願いいたします。
 兵庫県南部大地震ボランティアセンター、被災者生活支援・長田センターからのお願いです。


石巻の大地震・大津波で被災した人たちと対等に、
そして息長く交流が続くことを願っています。

 6月に、飯舘村の子どもたちの「図工の授業」(小黒三郎さんによる、組み木・昇り人形作り)をした後、仙台経由で石巻に向かいました。“石巻立町復興ふれあい商店街”が取り壊され後の皆さんのことを、夕食を共にしながら田村さんから伺いました。翌日も、田村さんに同行していただいて、Cream Roll(クリームロール)さん、ウメシンスポーツさん、戸田海産物店さんを訪ねました。元の商店街のアーケードが撤去された空き地が目立つ中で、プレハブの建物などで頑張っている人たちです。
 2011年の大地震と大津波で、人口約15万人の石巻市で、3,977人(2017年7月末現在、石巻市発表)の人たちが亡くなったり、行方不明になりました。木工の仕事をしている遠藤伸一さん、綾子さんご夫妻は、花さん(13歳)、寛太くん(10歳)、奏ちゃん(8歳)の3人のお子さんを亡くされました。2012年3月に新聞で紹介されたのが始まりで、遠藤さんと田村さんがつながり、断続的に交流が続いています。遠藤さんの木工所「木遊木(もくゆうぼく)工房」で、津波の海に浸かった住宅の木材の松の板を用意してもらい、それで組み木を製作しています。遠藤さんの自宅のあった石巻市長浜町には、遠藤さんの亡くなった子どもたちを記念する木工遊具「虹の架け橋」が作られており、たくさんの人たちがそこを訪ねます。また、敷地に置かれたコンテナハウスでは、綾子さんと仲間の人たちが集まって、グリーティングカードを作り、石巻の被災地からの発信を続けています。
 早朝の石巻漁港を訪ねました。漁港の周辺は、今もほぼ津波で流されたままですが、漁港の施設は新しくなり、1,200mもの水揚げ岸壁にそって約700mの施設が並び、網を上げてきた漁船が次々に戻り、カレイなど様々の魚を陸揚げしていました。施設とその規模は日本一なのだそうです。
 2017年3月11日に発売された「三陸わかめと昆布/浜とまちのレシピ80」(婦人之友社)は、わかめと昆布のレシピの本です。本の表紙には「この本は、婦人之友社・全国友の会・自由学園の3つの団体が、東日本大震災で出会った、宮城県石巻市北上町十三浜の皆さんとの交友から生まれました」。と書かれています。「3つの団体」の固有の働きの一つである「食」と、三陸・石巻の海の産物を、被災者支援・交友(流)でつないだ形の一つがこのレシピ本なのです。被災した人たちと対等に、そして息長く交流が続くという意味で、支援・交友(流)とは何かを考えさせられる働きであり、本です。
 東京子ども図書館は、全国の子どもの本の働きをしている人たちに呼びかけ、陸前高田市に小さな子ども本の図書館を作り、子どもの本を通して応援を続けています。それは、ただ応援するだけではなく、被災した人たちと応援する人たちを今もこれからも、つなぎ続ける働きになります。
 
 戸田海産物店でも扱っている、三陸のわかめや昆布(いずれも塩蔵)を用意しています。「三陸わかめと昆布/浜とまちのレシピ80」でたっぷり味わってください。(レシピ本は、それに止まらず、海のしごと浜のくらし、若い世代のレシピとして、石巻北高等学校などのわかめ、昆布料理の挑戦も紹介されています)。 height=1
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