武田泰淳が「秋風秋雨人を愁殺する」で中国清末期の「女性革命家」秋瑾(しゅうきん、チウ=チン)の伝記を書いていますが、同郷であった魯迅も秋瑾についての短い文章を書いています。「秋瑾女史(清末革命の志士、魯迅と同郷の友人)は、密告によって殺された。革命後しばらくは『女侠』とたたえられていたが、今日ではもう口にする人もほとんどないようである。革命が起こるや、彼女の故郷(紹興)に一人の都督――いまいう督軍と同じである――が乗り込んできた。それは彼女の同志でもあった。王金発(ワンチンファ)だ。彼は、彼女を殺害した首謀者を捕らえ、密告事件に関する書類を集めて、彼女の仇を報じようとした。だが結局は、その首謀者を釈放してしまった。つまり、もはや民国になったのだから、お互いに今さら旧怨を洗い立てるべきではない、というわけであった。ところが、第二革命の失敗後に至り、王金発は・世凱(ユワンシーカイ)の走狗のために銃殺された。その有力な関係者は、彼が釈放した秋瑾殺害の首謀者であった。この男も、いまでは『天寿を全うし』て大往生をとげた。しかし、そこに引きつづき跋扈出没しているのは、やはりこの種のやからである」(「『フェアプレイ』は時期尚早である」魯迅選集:第5巻、岩波書店」。)王金発は「…今さら旧怨を洗い立てるべきではない」と、言わば「フェア」にことに当たって、彼が釈放した秋瑾殺害の首謀者に銃殺されてしまいました。「フェアプレイは時期尚早」だったのです。この魯迅の「雑文」は、フェアプレイを説く、語堂(ユータン、林語堂)の言説、中でも「『水に落ちた犬を打』たぬことを『フェアプレイ』の意義」とすることへの、前掲の秋瑾のことを含め具体的な事実反論する内容になっています。そして言います。「『水に落ちた犬』は、決して打ってはならないものではなく、いな、むしろ、大いに打たねばならぬ、と言うだけのことである」。
・「水に落ちた犬」には三種あって、いずれも打つべきものである。
・特に狆は水の中に撃ち落とし、さらにこれを打たなければならぬこと
・「水に落ちた犬を打」たぬのは人の子弟を誤るということ
・失脚した政客を「水に落ちた犬」と一律に論じてならぬこと
・今のところはまだ『フェア』一点張りではいかないこと
・「当人のやり方によって当人を律する」ということ
で、魯迅は「仁人たちは問うかもしれない。しからば、われわれには結局『フェアプレイ』は不必要なのか、と。私は、ただちに答えよう。もちろん必要だ。しかし時期が早すぎる、と。…だから、『フェア』たらんとするには、まず相手をよく見て、もし『フェア』を受ける資格のないものであったら、大いに遠慮会釈なくやったほうが良い。相手の方も『フェア』になったうえで、はじめて『フェア』を持ち出すことにしても決しておそくはないのです。
で、「『フェアプレイ』は時期尚早であること」、そこには「特に狆は水の中に打ち落とし、さらにこれを打たなければならぬこと」などが書かれることになりました。
最近目にすることになった、「危険な道/9.11首謀者と会見した唯一のジャーナリスト」(ユスリー・フーダ著、師岡カリーマ・エルサムニー訳)の、「記者あとがき」で、魯迅の言う「フェア」が言及されています。「しかし、イラク・イスラーム軍の名で知られる武装組織を取材するためにシリアからイラクに不法入国し、『危険の往来する道』を命がけで歩んだ体験を綴るなかで、関わった密入国者などのイラク人個人に注がれる一貫してフェアな眼差しが、ユスリーの人間的なスタンスを物語っており、その文脈で読むからこそ、イラクの国民性に関する一見ショッキングなコメントも、偏見だの一方的だのといった嫌疑を容易に免れるのである」。
ユスリー・フーダは2001年9月11日の攻撃を計画した2人にインタビューをしたジャーナリストです。「・・・アルカイダのラムジー・ブン・シーバーとハーリド・シェイフ・ムハンマドのインタビューは、世界を揺るがした伝説的なスクープ」で、それが前掲の書物「危険な道」にまとめられています。
いわゆる9.11事件を引き起こした「国際的なお尋ね者」を「法を順守する善良な市民である取材者」が、「取材対象」にする、要するにそれだけの近い距離にいてしまうある種の「危険」と「信頼関係」は、取材対象であるお尋ね者はもちろん、その情報が提供される「世間」にとっても、極めて特別な位置を占めることになります。その位置に立つことを可能にしたのが、取材者ユスリーが「フェア」であったことだと「記者あとがき」は書きます。「情報提供者の条件を一度こちらが飲んだからには最後まで約束を守る、というのがユスリーの職業的倫理的信条」です。「フェア」なのです。
「危険な道」の後半「第二部、道への越境」は、「イラク・イスラーム軍の名で知られる武装組織を取材するためのシリアからイラクへの不法入国」ですが、帰還の途中シリアで密入国業者と一緒に拘束されてしまいます。この時も、「フェア」であることを決して譲らなかった結果、生き延びることになります。
9月17日、「国と自治体合同、西宮で/ミサイル想定訓練」が行われました。「北朝鮮の弾道ミサイル発射が相次ぐ中、ミサイル飛来を想定した避難訓練が17日、兵庫県西宮市であった。国、県、市の合同訓練で、推定約1,000人の市民が公民館や小学校に避難したり、自宅で頭を守る姿勢をとったりした。内閣官房によると、ミサイルに備えた国と自治体の合同訓練は関西初という」「某国から発射されたミサイルが国内に飛来する可能性があるとの事態を想定。午前10時過ぎ、市が防災行政無線で『ミサイルが発射された模様です。建物の中、地下に避難してください』と、西宮市南東部の住民に呼びかけた。屋内に入った住民は数分間、しゃがんで頭を抱える姿勢をとった」(9月18日、朝日新聞)。
「某国」を含む朝鮮半島は、1945年の日本の敗戦までは、植民地として一つの「国」でした。第二次世界大戦・太平洋戦争のこの地域での終結の時、ソ連軍は、ほぼ朝鮮半島全域に進出していました。戦争後を決めるポツダム会議は、当然、朝鮮半島の独立を確認していましたが、戦争後の当面の処置として、当分の間の(5年間)米ソによって統治(信仛統治)されることになりました。それが、今日も朝鮮半島を2つの国に分断する“38度線”です。そのことと、それが持っている問題について、以下略述することにします。参考にしたのは、古い文献ですが「朝鮮の歴史」(朝鮮史研究会、三省堂、1974年)他です。
日本による植民地支配から抜け出した朝鮮半島の人たちの何よりの願いは、独立、統一の朝鮮国家でした。しかし、第二次世界大戦とその後の世界を大きく2分することになった、米ソは、それぞれの覇権を朝鮮半島で争って譲りませんでした。結果、1948年8月にアメリカ軍政から政権を委譲された李承晩(イ・スンマン)を大統領とする南朝鮮の大韓民国の樹立が宣言されます。一方、同じ年の9月に挑戦の(実質的には北朝鮮の)金日成(キム・イルソン)を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が樹立されます。朝鮮半島の人たちがそれをよしとした訳ではありませんが、分断した祖国の統一への願いに、中でも南朝鮮、大韓民国に強い影響を持つアメリカを後ろだてとする李承晩大統領の「北進統一」の路線が統一への願いを踏みにじることになり、その結果の、南北朝鮮の武力衝突が、朝鮮戦争です。この戦争は朝鮮半島の全土を戦場として闘われ、3年1か月の戦闘を経て、協定を結び停戦することになります。その停戦協定の調停は、「朝鮮人民軍最高司令官・中国人民軍司令官・『国連軍』司令官」によって、調印されました。そして、勝利者のいない朝鮮戦争は1953年の「停戦」の後、今日に至るまで、戦争状態の停戦のままです。朝鮮半島での戦争は続いているのです。
「某国」は、朝鮮半島で停戦状態の続いている一つの当事国の挑戦民主主義人民共和国(日本では通称“北朝鮮”)であり、朝鮮半島の38度線で対峙しているのは、今も「国連軍」です。「国連軍」のはずなのですが、実体は某国の「指導者」を「ロケットボーイ」「おまえ(たち)を全滅させる!」と国際舞台で叫び、かつ行動しようとしているアメリカ、アメリカ軍です。
朝鮮半島で何より実現しなくてはならないのは、戦争状態のままの「停戦」ではなく、戦争状態の終結です。国連軍という名のアメリカ、アメリカ軍が引っ込んでしまう時、戦争は停戦ではなく終結になります。
ただ、こうした朝鮮半島を巡る戦争状態の「停戦」について、ずっとそして今も日本国は部外者ではありませんでした。例えば、いうところの「国連軍」の司令部は朝鮮戦争のその時から今日に至るまで、日本国に駐留する在日米軍基地にあり続けていることです。日本国は、戦争状態の「停戦」の立派な当事国「敵国」でもあるのです。
「某国」は、戦争状態の「停戦」を戦い抜くあらゆる働きの一つとして、核兵器を開発してきました。その理由というか、根拠は「停戦」とはいえ、戦争状態の相手が、その力を誇示するとき、核兵器をちらつかせることを辞さないからです。
で、願わくは、核兵器をちらつかせるのはもちろん、戦争という力づくで物事を処理しようとする考え、要するに考えないに等しいことを止めてもらいたいものです。
そして、止めた方がいいのは、「某国」から核兵器を搭載して飛んでくるミサイルを想定したり訓練したりすることです。もし、ミサイルが飛んでくるとして、それが「某国」からのミサイルで、何より危険なのは核兵器を搭載している場合です。それって、破滅ではないですか。とっても、とんちんかんなのは、ミサイル(ロケット)という防ぎようのない物体が、破壊兵器を積み込んで飛んできてしまう時、どんな意味でも防ぎようがないのに、形ばかりの訓練で済ませてしまえることです。そんなことより何より、比較的近い国で、戦争状態の「停戦」が続いているのを、国及び国民の一人一人がきっちり自己理解し、何としてでも可能な限り考え、戦争状態の終結を働きかけることです。
こうして、「考える」時に、心したいのは「フェア」であることです。核大国であったり、その核大国の傘の下にあったりする時、どこか別の国が核を持ちたいと言ったり行動したりするのを一方的に「止めろ!」というのは「フェア」ではないからです。止めさせる根拠を自ら放棄しているのですから。
どちらか一方の当事者が「フェア」でないとき、「フェアプレイは時期尚早」なのです。
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