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2005年11月04週
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 パキスタン北部で、大きな地震が発生したのは、10月8日午前8時50分(日本時間では8日午前0時50分)のことでした。M7.6(のちに7.7に訂正)、震源の深さが約10キロと言われる地震は、もしそのあたりにたくさんの人が住んでいるとすれば、想像を絶する被害になるはずでした。実際大きな被害になって、地震による死者の数は1ヶ月経った今も増え続けていて、87,000人と言われています(2005年11月17日、朝日新聞)。ちなみに、2004年12月26日の、インドネシア・スマトラ沖地震はM9で、地震の津波による死者は28万人と言われています。カトリーナによる被害は、11月4日に大阪の米国総領事館に直接問い合わせたところ、すぐには教えてもらえなくて、3日後に「・・・様々なニュースソースからまとめますと、死者の数は1,289人になります」という返事がファックスで返ってきました。
 M7.7、震源の深さが約10キロと言われるような大きな地震の場合、実際の被害は直後はもちろんかなり時間が経過した後でも解りにくいものです。当初死者の数を「・・・4万人の可能性」(10月12日朝日新聞、以下数字、日時などはすべて朝日新聞による)と予想していました。実際の死者の数も日を追うごとに増えて行きました。10月10日には死者19,136人、負傷者は42,397人、10月11日には、死者3万人以上、被災者400万人、そして11月12日には250万人が住宅を失い、100万人が緊急の援助を必要としており死者の数は4万人以上と言われるようになりました。なりましたが、地震の被害で解っているのはほんの一部分です。たとえば、10月14日に解ったとされる死者の数は25,000人で、震源に近いバラコトでは住宅25,000戸のうち90%が倒壊したと言われていましたから、この街のことだけでも誰もその時も、その後も死者の数など数えようがなかったのです。そもそもパキスタン政府は、「・・・地域の350万人中200万人が被災し、すべての行政機関が破壊された」と発表していましたから、調べたりする人がいなくなってしまったのです。そんな中でも、被災地では埋まっている人たちを掘り出したり、負傷した人たちの治療の為の懸命の取り組みが続けられていました。そもそもが大きな地震の大きな被害であったのですが、更に難しくしたのはその地域カシミールが、パキスタン、インド、中国などが、“停線ライン”をはさんで対峙する紛争地域でもあったことです。山岳地帯で村々の交通網が寸断され、情報も伝わらず、救援活動どころではありませんでした。そして、日を追う毎に確認される死者の数は増えて行きました。10月16日死者38,000人、負傷者62,000人、10月21日死者50,000人、負傷者74,000人。その後、死者などの数が断続的に発表されるのですが、11月3日に死者の数73,276人、負傷者は69,260人、更に、11月17日に死者の数は87,000人と発表されています。
 1999年8月17日のトルコ北西部地震は、M7.8死者の数は17,000人でした。地震発生から、2~3週間経って、死者の数は発表されなくなりました。8月の暑い夏の地震で、埋まっている人たちは掘り出しても手のほどこしようがないということで、掘り出すのも数えることも止めにしてしまったのです。今回のパキスタン北部の地震の場合のように350万人中、200万人が被災したとか、「バラコト高校生徒・教師85人を校庭に集団で埋葬した」などの場合、家族が見守ったなどということはあり得ず、すべての対応は間に合わないし、被害の全容を調べるなどということも不可能なのです。
 更に深刻なのは、生き残った人たち負傷した人たちの救援も遅々として進まないことです。国連は早い時期に、パキスタン北西部地震の救援の為、世界の国々に対して27,200万ドルの拠出を求めています。これに対して、日本が約束したのはたったの2,000万ドル、米国はたったの5,000万ドルです。
 こんな自然災害の時、希望を失うことなしに人はそんな事実と向かい合うことができるのだろうか。1999年8月のトルコの地震から2週間後に、そこに行くことには、もちろん躊躇がありました。言葉も解らないし、いわば何一つ助けになるはずがないのに決断したのは、「サラエボ旅行案内ムム、史上初の戦場都市ガイド」(FAMA、三修社)を手にして、池澤夏樹が帯に書いていた「・・・事態がわるくなればなるほどユーモアの生産量は増す。これが人間の叡智であり、想像力であり、文化の本当の底力というものだ」を地震直後に読み直した時です。で、兵庫県南部大地震の被災者の写真をべたべた貼ったヘルメットを用意し、“見ることに徹する”覚悟でトルコに出掛けました。そして、20本を越すフィルムに、被災地の街々、生き残ったトルコの人たちを写させてもらいました。

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