いくつかの映画評が気になって(興味を引かれ?!)公開日を待ち「女神の見えざる手」を観ることになりました。主演のジェシカ・チャスティンは、2011年(第84回)のアカデミー賞助演女優賞にノミネートされたりしているらしいのですが知りませんでした。“気になった”のは、銃の所持が当たり前になっているアメリカ社会で、そのことでの一番の社会的影響力を持っている全米ライフル協会ロビイストの仕事を断って、銃規制派の小さな会社に移籍して活躍する主人公たちが、とってもかっこいいらしいあたりです。映画評の一つでは、アメリカで直近に起こってしまった銃乱射事件のことも触れられていました。銃の購入、所持がほぼ自由なアメリカは、4~5分間で数十人を乱射殺害できる銃の所持・改造が可能で、そんな暴力が、社会通念上許されている社会です(であると考えられます)。映画は観ていませんが「アウトレイジ・最終章」(北野武監督)は、たとえば銃という暴力を、暴力を止まるところを知らず行使する人間を描くことで、人間というものえぐり出した作品だと言われます。誰かにそれ(銃)が向けられた時それだけで、その引き金が引かれてしまった時、その先で起こるだろうこと、起こることは、説得ではなく力ずくでしかも問答無用で片付ける暴力です。映画「女神の見えざる手」は、主人公が銃規制派のロビイストの道を選んだ時、単なる規制ではなく、暴力ではない社会での立ち位置を選んだ(らしい)ことが、実は映画の最後の最後の切り札を出すことで明らかになります。(なるのだと思います)。「女神の見えざる手」の映画の原題は主人公のエリザベス・スローンの「Miss Sloane」です。これが「女神の見えざる手」になるのは、(思いすごしかもしれませんが)、よくまあ見事につけたものだと思えてなりません。
出回っている銃が3億丁とされるアメリカ社会、圧倒的な暴力が容認される社会で、暴力ではない立ち位置を選ぶことは、どんな意味で可能なのだろうか。それが、この映画の根本にあるテーマだとしたら、それはどんな表現になるのかを、映画で見せてくれるそんな映画なのです。(なのだと思う)。主人公は暴力がもたらす不幸、暴力における人間の退廃を真正面から向かい合うことにおいてたった一人であっても怯みません。ひるまない人間が「Miss Sloane」なのです。たぶん、その原題は、たった一人であってもひるまない人間であるという意味も込められています。そして、更に、それが固有名詞であることを、映画は赤裸々なプライベートを描くことでも、そうでなくてはならないことを意識しています。で、結果的には敵の切り札をひっくり返す切り札で大逆転になるのですが、現実はともかく、映画ですから、まあ、いいのだと思います。それにしても、日本語の題名もよく出来ています。例えば、主人公が最後の言葉で迫りますが、言葉で迫っても人間の不幸や退廃はだからと言って見える訳ではありません。見えないけれどもあるものを、言葉を武器に立ち向かうのです。その武器を、最後の最後に言葉で語って見せたところが「女神」たる所以なのかもしれません。
「女神の見えざる手」では、ある聖書の箇所が2度にわたって、(だったと思う)指摘されるのですが、スマホで「『女神の見えざる手』、聖書」で確かめてもらったところ、「ルカによる福音書14章10節」でした。それが、映画のどの場面のどういうやり取り出会ったのか定かではないのですが、3度にわたったのは何か意図があったはずです。「…むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて『友よ、上座の方へお進みください』というであろう。そのとき、あなたは座を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう」。もう、一度も2に度も映画館へ足を運んで、観て確かめるよりないのですが、この文書をどう読むかについて少し考えられなくはありません。(キリスト教的な世界では、このたとえが、引用される時に、何か特別な意味があったりするのかも知れません)。個人的な性格、気持ちとしては「末座」ではなくもちろん「上座」でもなく、その他大ぜいに紛れ込んでいる方を好みますから、このたとえは、いかにもわざとらしいと言うか、やっぱりこいつは目立ちたかったんだと思えなくはありません。平等・対等というか、誰かを分けへだてることを好まないし、相互扶助的なことを真骨頂としたであろうイエスには、このたとえはふさわしくないように思えます。どちらかと言うと、もっと素直に、そんな風に気を使いあう社会のありようを、少しえぐる、ないし拒む位置にいたのがたぶんイエスだったはずですから。(これも、だと思うとしか言えないのだが)。「女神の見えざる手」は、何故ルカによる福音書14章10節なのか、確かめたいので改めて映画館に足を運ぶつもりでいます。
いずれにせよ、「女神の見えざる手」が赤裸々に描く主人公は、すべてが裸になった一人の人間として、そんな人間の言葉「見えない手」で、圧倒的な暴力に立ち向かいかつえぐることで決してひるむことも引き下がりもしないのです。
「母ではなく親になる」(山崎ナオコーラ、河出書房)は、著者が「人に会いたい、人に会いたい、と思って生きてきて」「そうして、子どもの生み方がわからないまま、30歳を越え」「妊娠中に、『母ではなくて、親になろう』ということだは決め」「今、私の前には2カ月の赤ん坊がいる」「親」と「赤ん坊」の記録です。出産は「帝王切開」で、それを次のように書いています。「こんなことを書くと、傷ついてしまう人もいるかもしれないのだが、あえて書かせてもらうと、私は帝王切開のことを『お産』『出産』というよりも『手術』だと感じた」「でも、私は手術だと思った。私は手術で子どもを産んだ」「私の力というよりたくさんの人の力によって赤ん坊は生まれてきた」。で、「あとがき」では、以下のようにも書いています。「私は純粋な人間関係に憧れがあります。社会を生き抜くために手を繋ぐのではなく、ただ手を繋ぎたいから手を繋ぐ、というような。例えば、仕事の相談をし合わない仕事仲間とか、育児の情報を共有し合わないママ友とか、役割分担をしない夫婦とか、そして、なんの得にもならない本を書く作家とそれを読む読者とか」「思えば、そういう小説ばかり書いてきた気がします」「でも、現実を生きているときの私は、憧れに向かってまっすぐに進むことはできません」。
「女神の見えざる手」は、主人公エリザベス・スローンを、もともとは一人で生きて、依存もしないし、依存もさせない自立した「赤裸々」な人間として描きます。「現実を生きているときの私は、憧れに向かってまっすぐに進むことはできません」、しかし、主人公の周囲には、「手を繋ぎたいから手を繋ぐ」が現れて、最強のチームが出来上がります。
「かわいいおとうさん」(ささめやゆき絵、こぐま社)は、山崎ナオコーラの絵本です。描かれているお父さんは、特に「かわいい」ということではないのですが、子どもがもし「かわいい」と思うなら、それも「あり!」なのです。と言うか「手を繋ぎたいから手を繋ぐ」ということは、すべてにおいてあたりまえに生きる子どもにとって、極々自然な人間の生きた営みなのです。ですから、お父さんは「かわいい」のです。おとうさんのかおをぺちぺちなめます。ですから、おとうさんのかみをぐにゃぐにゃつかみたくなります。ですから、おとうさんのかみのけをもじゃもじゃにしたくなります。ですから、おとうさんのいたいざらざらひげにかおをくっつけたくなります。「かわいい」「かわいい」おとうさんなのです。ですから、おとうさんのかおをずーっとみていたくなります。
あっくんは「かわいい」子どもなのです。「かわいいおとうさん」は、たぶん、子どもたちが気にいる、いい絵本として残るような気がしますが、2、3歳の子どもたち約20人に読んだところ、ばっちり食らいついてきました。
グリムの昔話は、何しろ「おはなし」ですから、たとえ「理」に適っていなくても、一向に構わないことになっています。しかし、なのに「真実」を語ることにおいては、どんな事実にも負けることはないのが、「グリムむかしばなし」です。「グリムむかしばなし(1)」(ワンガ・ガアグ編、絵/松岡享子訳/のら書店)の7番目のお話しは“六人の家来”です。
「グリムのむかしばなし」の、“六人の家来”の場合の魔女はなかなかの「悪」です。悪知恵が働いて容赦しないのです。「…この人は、女王であるだけでなく、魔女でもあったのです!頭の中には、呪いの言葉だの、人に害を及ぼすまじないだのが、ぎっしり詰め込まれ、心は憎しみでいっぱいでした」。魔女である女王には「王女さま」がありましたが、「おてんとうさまのもとで、いちばんうつくしいおとめ」でしたから、「大勢の若者が、王女の心を射止め」ようと若者がやってきます。しかし、母親の女王の魔女の出す難題が答えらえず、誰一人生きて帰って来たものはいませんでした。その難関を、六人の家来の助けで突破したというのが、「グリムのむかしばなし」の“六人の家来”です。おしまいは、こんな具合です。家来の一人「くだき目二玉」のひとにらみで、「魔女は、粉々に砕けてしまいました」。更に、今や王女は、本来の自分を取り戻しました。そして、その場で、たちまち王子と恋に落ちました。…二人は、…幸せに暮らしました」。
魔女とはいえ、母親を「粉々に砕いた」若者と「幸せに暮らしました」を「グリムのむかしばなし」はさらっとお話しにしてしまうのです。「悪は滅びる」などと言った、平凡な倫理ではなく、生きた人間が心の奥底で必ず抱えている極悪非道を「おはなし」の形を借りて、明らかにしてみせるのです。それは何もグリムの創作ではなく、生きた民衆の直感(それは「真実」であるのです)が「おはなし上手」の力を借りて、おはなしとして言葉に移し伝えることになったのだと考えられます。
身近に子どもたちと共有できるグリムは、前掲の「グリムのむかしばなし(1)〈Ⅱ〉」の他に「子どもに語るグリムの昔話(全六巻)」(佐々梨代子 訳、野村泫 訳 、ドーラ・ポルスター 扉絵/こぐま社)があります。
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