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小さな手大きな手

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2017年11月02週
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 第二次世界大戦の敗戦国であるドイツの戦争犯罪が裁かれたのはニュールンベルク裁判です。敗戦国である日本の戦争指導者の戦争犯罪が裁かれたのは、東京裁判(または、極東軍事裁判です。東京裁判は日本の戦争の戦争犯罪として25人をA級戦犯として起訴、7人が絞首刑、1人が終身禁固、1人が禁固20年、1人が禁固7年となりました。終身禁固となった木戸幸一(文相、内相、厚相、内大臣)については、「…ついで木戸被告である。注目の被告『彼は非常に勢力ある地位にあり、それを天皇にも及ぼした』――と強い表現あって有罪」となり終身禁固でした。(「東京裁判、下巻」朝日新聞社)。ここで「それを天皇にも及ぼした」とされる天皇の戦争犯罪は東京裁判で裁かれることはありませんでした。
 その天皇についての戦争犯罪可否を小説で書いたのが「東京プリズン」(赤坂真理、2012年、河出書房)です。天皇やその戦争犯罪の「書きにくい」ところを小説にし、更に、米国に留学しホストファミリーの中で過ごす女子高校生の高校の授業の形で、天皇の戦争責任を問うという、込み入った筋になっているのは、そこで初めて根底にあるものが見えてくるだろうからです。天皇は「…それを天皇にも及ぼした」人たち、たとえばA級戦犯とされた人たちの影響、主導のもとで起こされた戦争であるから、天皇は戦争犯罪人として裁かれることをまぬがれたと一般に言われることがあります。しかし、たとえば太平洋戦争が始まったのも、戦争の終結となったのも、天皇の言葉です。
 「天佑を保有し、万世一系の皇祚を践める大日本帝国天皇は、昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。朕、茲に米国および英国に対して戦いを宣す。朕が陸海将兵は、全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽くし、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに違算なからんことを期せよ。…事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起って一切の障礙を破砕するの外なきなり。皇祖皇宗の神霊、上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の偉業を恢弘し、速やかに禍根を芟除して、東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せんことを期す」。で、始まったこの戦争の奇襲攻撃についての言葉も天皇の名で述べられています。「連合艦隊は開戦劈頭、善謀勇戦、大いに布哇(ハワイ)方面の敵檻隊及び航空兵力を撃破し、偉功を奏せり。朕、深くこれを嘉尚す。将兵ますます奮励して、前途の大成を期せよ」(以上、「近代詔勅集」、村上重良、新人物往来社)。言われている、ハワイ真珠湾攻撃で、3000人近くの米軍人が命を落とすことになりましたから、戦勝国がこの勅語の人物を、東京裁判の被告として裁くこともできたし、他のA級戦犯と同様に絞首刑にしたとしてもあり得たはずです。しかし、責任は問われませんでした。ただ、東京裁判は勝った側が負けた側を一方的に裁く裁判でしたから、勝った側の戦争犯罪、一般の人を無差別にかつ計画的に大量に爆撃・殺害した空襲、たとえば東京大空襲、広島や長崎への原爆投下は、戦争犯罪として問うことも、問われることもありませんでした。「東京プリズン」は、東京裁判が一方の戦争犯罪を裁こうとしたことでは、決して明らかにし得ない、人間とは何かを小説という手法で天皇その人の心の奥にも踏み込んでえぐろうとしました。「…私の同胞が犯した過ちはあります。けれど、それと他人の罪は別のことです。自分たちの過ちを見たくないあまりに、他人の過ちまで目をつぶってしまったことこそ、私たちの負けだったと、今は思います。自分たちの過ちを認め合って、他人の罪を問うのは、エネルギーの要ることです。でも、これからでも、しなければならないのです。私は人民(ピープル)であり、一人ではありません。人民(ピープル)は負けることはありません。一人が負けても、すべてが負けることはないからです。だから、独りでも私は、退きません。私に負けを宣告してもいいのです…」。「ホストファミリーの父親ーティムが一人で手を打ち鳴らしていた。その妻メアリ―・アンは沈黙を守っていた。それを見て、私はアメリカが初めて好きになった。自由の、なんという孤独」(「東京プリズン」)。
 「文学界」(文芸春秋社)2月号で、赤坂真理が「石牟礼道子を語る/ミナマタで」を書いていました。赤坂真理の水俣と石牟礼道子を訪ねる旅の物語です。その旅の案内人でもあるのは、胎児性水俣病患者として生まれた「坂本直充」さんです。ここで書かれている、水俣と石牟礼道子の旅の言葉は、「東京プリズン」が問いかける言葉につながっているように読めました。
 「この言葉を見たとき、私はふるえた。チッソは加害者で、自分たちは被害者と思っている。ふつうそう思う。チッソが垂れ流した廃液で自分や大切な人の中枢神経が侵されたのなら、そう思う。が、私も環境汚染に加担していて、私もまた、チッソなのである。被害者と加害者が、ゼロの地平に立つ。そんなことが、本当に言えるとしたら、それは、加害と被害と報復の連鎖に明け暮れることに、どれほどの救いとなるだろうか」
「『正人さんなにも言わなかったよね』坂本さんはぽつりと言った。そこには同じくもの言わず、ただいた友もいたのだ。見守るということ、なんという無力さ、そして強さ。そこで私は卒然として気づく『チッソは私であった』という言葉は、感動的に聞こえるが救いではないのだと。むしろ、それが地獄の一丁目だった」
「生きることが、そこに懸っているのだ。ただ、生存するのでなくて、何かが全 で、何とも言えない、でもそれは決定的なものだ。そういう何かが『そこ』に在る気がする」
「東京プリズン」の「…自由、なんという孤独」「ミナマタで」の「なんという無力さ、そして強さ」「むしろそれが、地獄の一丁目だった」につながって、赤坂真理のえぐるもの少なからず見えてくるように思えます。それは、ただ生存するのでなくて、『人として生きる』」なのです。「方向性のはっきりした力は、強いが判りやすい」誰に向かって咲いているのではない、全方向に開かれて微笑んでいるような人が、見えない中心のようにあり、浸透する力」になるのです。
こうして言われている「人として生きる」は、同じ赤坂真理の憲法理解にもつながっています。「憲法という概念を腹の底から欲した経験は私たちにはありません」(11月3日、朝日新聞、赤坂真理)という時の根底において求めているのは、「人として生きる」です。先日、紹介した「アベ政治を許さない」の件ですが、改めて県教委の担当者から電話がありました。「幼稚園の玄関ではなく、隣の教会の集会室の外壁ですよ」とお答えし、「安心」していただきました。ですが、「念のために、心配される根拠は何ですか」とお聞きしたところ、「教育基本法」とのお答えでしたので、とりあえずの見解をお伝えしました。

①すべての国の法律の中でも、憲法が上位にあること
②その上位の法律・憲法が表現の自由は保障されていること
③護憲であれ、改憲であれ、現に存在する憲法がそれを保障してい
るのであれば、それを尊重すべきであること

「GHQ(連合国際司令部)の民生局が草案を書きました」であるはずの憲法21条〈集会・結社・表現の自由、通訳の秘密〉は、もしモデルがあるとすれば、民生局で草案を書いた人たちの国、アメリカ合衆国憲法です。「いわゆる憲法修正の第一条に『連邦議会は法律により言論および出版の自由を制限することを得ず』という条項を取り入れたのはまさにこの理由によるのであって、この条項の適用に制限がなく、一切の例外を認めていない点に注目することが肝心です」(「クリオの顔」ハーバード・ノーマン)。そのアメリカ合衆国では、この憲法修正の第一条」はもちろん今現在、すべての法律の上位の法として生きて機能しています。「そこから、始めた私のもわかるテキストが、今、世界のニュースにあります。トランプ大統領です。難民の入国制限などを巡って、大統領令が司法によって、何度も差し止められました。憲法がまさに機能しています。『憲法を保ち、保障し、守る』。これが、米国大統領就任式での宣誓内容です」(赤坂真理、11月3日、朝日新聞)。
 
日本では(も)、裁判所である事件、出来事を判断する場合には「前例」によって左右されることになっています。それが、統治国家の法律なのです。沖縄で新米軍基地を、辺野古・大浦湾を埋め立て建設するにあたって、沖縄県は自然保障(希少サンゴ、海洋生物、ジュゴンの藻場など)を理由に前知事の承認を取り消しますが、高裁・最高裁は、政治上の国の安全保障を理由に「取り消しを取り消し」ます。直近の判例として、広島高裁は、同じ自然保護を理由に、広島県福山市鞆の浦では、広島県の埋め立て計画の中止を命じました。法律・憲法が、埋め立てを許さないというのが、その理由です。そして「前例」になったはずです。しかし、沖縄・辺野古では、政治が法律・憲法を踏みにじりました。
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