小、中、高校などで起こっているとされる「いじめ」が、2016年度には過去最多の32万件だったのだそうです。「全国の小中高などで2016年度に32万件のいじめが把握され、前年度から約10万件増えて過去最多になったことが分かった。文部科学省が20日、調査結果を発表した。特に小学校で増えており、文科省は『いじめを積極的に見つける対応が定着してきた』とみている」「文科省が、全国の約3万8千校が子どものアンケートや面接などで把握したいじめの件数を集計している。今回から『けんかやふざけ合いでも事情を調べ、いじめにあたるか判断する』と呼びかけており、子ども同士のトラブルが以前よりも幅広く『いじめ』と判断された可能性がある」「1年を通じて30日以上学校に行かなかった不登校は、小学校で3万1151人(1千人あたり4.8人)、中学校10万3247人(同30.8人)で、いずれも1千人あたりで過去最多となった。小学校では暴力行為も増えており、前年比33.8%増の2万2847件だった」(以上、10月27日、朝日新聞)。こうして前年比いきなり「10万件増」となっていることをめぐっていくつかの見解が述べられています。「昨年度よりも10万件多いいじめが把握された理由として、文部科学省は学校に対して、けんかなどを含め、積極的にいじめをとらえるよう促したことを挙げる。『いじめゼロ』を目指した過去と異なり、いじめはどの学校にも起こりうるという前提で、教員の意識改革を求める『見逃しゼロ』に軸足を移した形だ」「いじめの件数を報告するという『形』が優先され、指導の『内実』がついていかなければ本末転倒だ。国や自治体には、学校が腰を据えて取り組めるような環境作りが求められる」(同前、朝日新聞)。
そして、件数の増加は、「けんかなどを含め、積極的にいじめをとらえるよう促した」ことにもあり、かつ「いじめの件数を報告するという『形』が優先された」結果であると考えられています。その学校では、子どもの自殺が増え、不登校も増えています。調査によれば「自殺は前年よりも29人多い244人で過去最多」(別に警視庁の調査では348人)。不登校も前掲のように過去最多です。学校が子どもたちの生き生きと生きる場所であるとすれば、生きること、生き延びることをうながすことがあっても、行きたくない(不登校)や学校が自殺につながることは起こりにくいはずです。ところが、そうであるべき学校に行きなくない子どもたちが多く、前年比も増えています。そして、生きていることを喜びかつ共有、共感する仲間たちに恵まれているはずの、小中校生徒の自殺も前年比で増えています。子どもたちの書き残している手紙などからも、学校が理由で自殺する子どもたちも後を断ちません。
この調査結果の報告に少なからず違和感を抱くのは、そうして調査報告されている学校でのいじめが起こって、増えているらしいことの「なぜ、そうなるのか?」が言及されていないことです。かつて、12,13歳くらいの子どもたちの自殺、他殺をめぐって、それを「身体的自殺・他殺」と定義されたことに納得したことがあります。生きることへの絶望や嫌悪ではなく、また誰かに対する憎悪が直接の動機ではなく、気がついてみたらそれをしていたというような意味での12,13歳くらいの子どもの自殺・他殺の定義です。今生きている状況の中で身をかわすとか、間を置くとか、立ち停まってみるとかができなかったりする時、ため込んでしまった力を別の何かにぶつけてしまう時の相手が自分であったり、他の誰かであったりする、その当たり具合で自殺になったり他殺になったりする、そんな風な定義であったような理解をしたように思います。
で、「前年比10万件増」「最多32万件」の学校現場はどんなことになっているのだろうか。「教員の意識改革を求める『見逃しゼロ』に軸足を移し」や「いじめの件数を報告するという『形』が優先され」などから思い浮かんだり、「小さないざこざも、重大な事態につながりかねないことは、これまでのいじめ自殺の教訓だ。兆しを見逃さない姿勢は大切だ」などから、いじめ、自殺などの問題が学校現場の教師にゆだねられているらしいことです。「国や自治体には、学校が腰を据えて取り組めるような環境作りが求められる」(同前、朝日新聞)。
たとえば、学校の「目的」を定義する「教育基本法」は「改正」されるまで(2006年)「…教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、他人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われねばならない」となっていました。「改正」後は、それが「第1条目的」「第2条、目標」に分けられ、「他人の価値」は「個人の価値を尊重しその能力を伸ばし」となったりします。それは、改正前の、無条件に「個人の価値をたっとび」とは大いに違っています。個人の価値は「能力」であることに少なからず由来すると考えられていたり、改正前の「自主精神に充ちた」は「自主及び自律の精神を養い」になりますから、これは大いに違っています。個人の価値、自主精神は「改正」された教育基本法では、その本来の精神はほぼ失われていると考えられます。
もし、改正前の教育基本法であれば「学校いじめした32万件、昨年度10万件増、自殺244人」の学校現場は、そもそもの存在理由が問われる現場に成り下がっていると言わざるを得ません。子どもたちが追いつめられ、子どもたちを追いつめ、「いじめ」が起こり「自殺」に追い込む働きに荷担してしまっているのだとすればです。
「改正」教育基本法はその「目標」が求めているのは、たとえば教育の現場で、一人の子どもの一人の人間としての存在よりは、個人をその価値で評価することが念頭にあり、「身に付け」「養い」「培う」「健やかな身体を養う」など、明日のために望ましい子どもを作ることを目標とする、「掛け声」が教育と考えられています。
広く世界で読まれてきた「精霊の守り人」で始まる「守り人シリーズ」「獣の奏者シリーズ」などが評価され、作者の上橋菜穂子が国際アンデルセン賞を受賞することになった「受賞理由」は、「多様な価値観」「多様な環境で生きる人びとが交差する複雑な世界を描いていること」「自然や人類への愛情や敬愛の気持ちが物語に表れている」などだったそうです。(上橋菜穂子「物語と歩いてきた道 インタビュー・スピーチ&エッセイ集」偕成社)。こう書かれている「受賞理由」は、「改正」前の教育基本法のいう「個人の尊厳」「個性豊か(な文化の創造)」とそのままつながっているように読めます。そして、学校で起こっている「最多32万件」「(前年比)10万件増」の「いじめ」について、それが何を意味するかについて、前掲書の「経験は、物語を紡ぐ〈羅針盤〉」で、示唆されているように読めました。「…子どもの頃から不思議でした。なぜ人は、一人一人だとこんなにも通じ合えたり、仲良くなれたりするのに、たかがクラスの中でもグループになってしまうと、まったく違う力関係が働いて、いろんなことが変わってしまうのか。やがて、文化人類学を学ぶようになってからも、このことは私にとって、とてもとても大きなテーマでした。人が群れになった時、どんな葛藤や争いが起きるのか知りたかった」。以前(と言っても30年くらい前)、イヴァン・イリイチと吉本隆明の対談で、学校を「通過儀礼」の場、時間として定義していた記憶があります。その人(子ども)が、その社会で生きる限り、「節目節目」で経験しなければならない儀礼「入学、卒業、成人式、結婚、出産、葬儀、供養など」(「新明解国語辞典」三省堂)の一つが学校であるとすれば、理解です。この理解はかなり緩やかで、「…学校は行って、卒業しておいた方がいい」くらいまでも、その理解、定義には含まれると考えられます。前述の上橋菜穂子の見ている学校は、少なからず異なっています。「…たかがクラスの中でも、グループになってしまうと、まったく違う力関係が働く」は、「たかがクラス」でも、ただの「グループ」「力関係」でもないのが、現実です。全く逆で、あらゆる意味で、強制力、監視(教員、生徒による相互監視)の力が働く世界になっているはずです。それも、有形、無形の型で監視の目は張り巡らされているという具合にです。大人だったら(実際、大人だって大変なのですが)その世界の境界線ぐらいで、はけ口らしきものを見つけて、次の一歩、次の日を迎えられなくはありません。しかし、小、中、高校生の学校での監視の目は、そこから一歩踏み出した世界でも、広範に徹底して張り巡らされているはずです。更に、ひょっとしたら、多くの場合の家庭、家族も、それに加担ないし、積極的な担い手になってしまっていたら、小、中、高校生ぐらいの子どもたちは、そうして抑え込まれている現実をそのまま生きるはずがありませんから、小出しに、時には爆発させるように反撃に出ることは、あり得ることなのです。いわゆる「いじめ」は、こうした理解で、そこそこ説明できるように思えます。
そのいじめ「学校いじめ最多32万件」「昨年度10万件増、自殺244人」を更に学校という枠組み、制度が強化される現実の中で、事細やかに調べそのことでも、「評価」「指導」が強いられるのが、教師の仕事であるとするなら、何と不毛なことであろうかと思わされます。
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