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小さな手大きな手

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2017年12月01週
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 11月24日の新聞(朝日新聞)で、いきなり報道された「同性パートナーの宮中晩餐会出席『反対』」の小さな記事の小さな見出しだったにもかかわらず、波紋を呼ぶことになります。「自民党の竹下亘総務会長は23日、天皇、皇后両陛下が国賓を迎えて開く宮中晩餐会をめぐり『(国賓の)パートナーが同性だった場合、私は(晩餐会への出席には)反対だ。日本国の伝統には合わないと思う』と述べた」「竹下氏は講演で、まず異性間の事実婚に言及、オランド前仏大統領が来日した際、事実婚相手の女性を宮中晩餐会に伴ったことについて、『奥さんではないパートナーだという女性が天皇、皇后両陛下と並んで座るわけだから、どう対応しようかと宮内庁職員は悩んだ』と指摘した」「そのうえで同性同士のケースに触れ、『そのパートナーが同性だった場合、どう対応するか。日本国として必ず近い将来、突きつけられる課題ではないか』と述べた」。
 多くのほとんどの「国民」にとって、宮中晩餐会は遠い遠い出来事であって、更にその言わば「内輪」の出来事、それがどんな風に行われ、誰がどんな理由で選ばれ出席しているかは関心の外にあったにもかかわらず「いきなり」で「波紋を呼ぶ」ことになります。当然、誰が仲間に加えてもらえ、誰が仲間に加えてもらえないかは、「国民」の日常からは遠い遠い問題でもあるにもかかわらずです。
 ですが、「自民・竹下総務会長『日本国の伝統に合わない』」発言は「日本国」というものの現状況を少なからずあぶり出しています。「オランド前仏大統領が来日した時、事実婚相手を宮中晩餐会に伴った」ことで宮内庁は「悩んだ」とありますが、たぶん日本国「国民」の場合は悩んだりしないはずです。もともと、そんな場合のことは想定もしていないからです。言ってみれば徹頭徹尾「排除」してしまっているのですから、悩む必要もありません。誰かが悩むとすれば、当事者たちで、宮中晩餐会と言う遠い遠い出来事ではなく、広く日常的に市民権が与えられていないはずで、日本社会では形見を狭くして生きざるを得ないからです。「いきなり」「波紋を呼ぶ」ことになった「同性パートナー」は、「宮内庁は悩んだ」りする社会では、元々、片隅に追いやられているのです。「そのパートナーが同性だった場合、どう対応するか。日本国として必ず近い将来、突きつけられる課題ではないか」と言ったりもしていますが、「近い将来」ではなく、今、現実に多くの「同性パートナー」たちは、「自民・竹下総務会長」たちに代表される人たちによって、市民権を奪われた存在をおびやかされて生きているはずです。
 「いきなり」で「波紋を呼ぶ」この報道は、11月25日、11月27日、11月28日、11月29日と波紋は広がります。「同性パートナーが、天皇、皇后両陛下主催の宮中晩餐会に出席するのは反対――という、自民党の竹下総務会長の発言に24日、反発相次ぎ、竹下氏は反省を表明した。だが、これまでも駐日外国大使の同性パートナーは『配偶者』と認められず、宮中行事に参加できなかった」(11月25日、朝日新聞)。「反発が相次ぎ、竹下氏は反省を表明」になったりするのは、「同性パートナー出席『不可』」にはその根拠が示しにくいからです。いいえ、そもそも根拠はないのです。前掲のオランド前仏大統領では「悩み」、デンマークの前駐日大使では同性パートナーは「同行することはかなわなかった」としても、「宮中行事の前例」義の根拠が示されている訳ではありません。「前例」にすぎないのです。それが「前例」になった根拠を問われたとしても「前例である」以外の答えを返すことも、示すこともできないはずです。にもかかわらずそれが「前例」になったのは、それが「前例」だったからです。「事実婚」や「同性婚」が、今までの日本社会でなかった訳ではありません。事実としての「事実婚」や「同性婚」は、人間の婚姻なるものの歴史と同じくらい古くからあったはずですが、社会はそれが公然となることを認めてきませんでした。こうしたことの歴史的考察をしている訳ではありませんが、子孫を残すことが家族関係と不可分な条件と考えられたり、私有財産とその継承が社会通念となったりする社会は、「事実婚」や「同性婚」を許容することができなくなったのかも知れません。そうだとしても、前掲のようなことが、今、天皇、皇后両陛下の宮中晩餐会出席「不可」になることの根拠を示すことになっている訳ではありません。
 しかし、この「不可」などのことが今頃になっても話題になって、根拠や説明なしでも通用してしまうのは、日本社会の多数“派”が、少数者を力づくで封じ込めるないしは排除する論理がまかり通っていることを意味します。前掲の新聞の報道のように、波紋が広がり続けるのは、「事実婚」や「同性婚」を完全に封じ込めるのも排除するのは難しいのは、何よりも説得力のある根拠が示せないからです。それは別の言い方をすれば、前掲の多数(派)と少数の間の共通の約束が成り立ちようのない事柄だからです。ルソーの「社会契約論」は、繰り返しそのことに言及します。「一人対一人の場合でも、一人対全人民の場合でも、次のようなせりふは、いつでもバカバカしいことに変わりはない――「私とお前との間に、負担は全くお前にかかり、利益は全くわたしのものになるような、約束をむすぼう。その約束を、わたしはわたしの好きな間だけ守り、そしてお前はわたしの好きな間だけ守る」(「社会契約論」第一編、第4章、ドレイ状態について、ルソー、岩波文庫)。そして、そのことに根拠を与えるのが社会契約だとルソーは考えます。「『各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人が、すべての人と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること』これこそ根本問題であり、社会契約がそれに解決を与える」(前掲「社会契約論」第一編、第6章、社会契約について)。「事実婚」「同性婚」の問題が波紋を広げ続け、「反発」に対ししどろもどろで押され気味なのは、どうであれその根拠が示し得ないからです。平等、対等の約束を尊重し合うという関係が最初から崩れているところで示される「不可」は説得力を持たなかったとしても当然です。「力づくで」「排除している」ことに居直るよりないし、今回の「不可」もそれ以上のことは語り得ないし、愚行というよりほかありません。
 しかし、人間の築き上げてきた社会はもう一方で、もう少し賢明に守るべきものが何かを示し、それを生きたものとしてきました。
 約束を守るです。
 「グリムのむかしばなし1」(ワンダ・ガアグ編・絵、松岡享子訳、のら書店)に収録されている昔話の一つが「かえるの王子」です。それは「…昔、ねがいごとがまだいくらかききめがあったころ、ひとりの王さまがすんでいました。王さまには、うつくしいむすめが何人もいましたが、なかでも、いちばん末の王女は、それはうつくしくて、たくさんのふしぎを見ているお日さまでさえ、その顔をのぞきこむたびに、驚嘆せずにはいられませんでした」。この王女さまが、事もあろうに、かえると「遊び友だちになる」約束をしてしまいました。「人間の遊び友だちになんて、なれっこないのに」とたかをくくった末でした。「約束」を「たかが」としか理解しない娘・王女に、しかし父・王は「もし、約束をしたのなら、むすめよ、それはまもらねばならぬ」「自分でした約束は、まもらねばならん」「この方は、おまえがこまったとき、助けてくれたのだよ。今になって、さげすむのは、正しいことか」と許さないのです。グリムの昔話が語り伝えられた時代の、普通の人たちの常識は、どうであれ約束は守るものでした。もちろん、その約束は「負担は全くお前にかかり、利益は全くわたしのもの」などということはあり得ませんでした。生きている状況の差異はあっても、平等、対等な両者が納得ずくでするのが約束なのです。
 今、「不可」と言ってしまって波紋を広げてしまっている「事実婚」「同性婚」をめぐる問題は、グリムの昔話が、子どもたちに語り伝えた物語の語り手、その時代から今に至るまで生きて共存する人たちをないがしろにするこの国の状況を露呈することになっています。
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