中島みゆきが新しい歌をいくつか歌っています(「転生」2005年11月17日)。で、その中の一曲が「私が祖国は風の彼方」です。ふと思うのですが、その歌は無残な祖国の現状を見つめ、50年100年先の祖国を望み見てるように聞こえなくはないことです。無残な祖国、見切りを付けるよりない祖国、けれども、もしかしたら、“風の彼方”“水の彼方”“波の彼方”“砂の彼方”“空の彼方”に誇るに足る祖国はあるかも知れない、とそんなふうに聞こえるのです。
誰に尋ねん 国の在り処を
いつの日にか帰り着かん 遙かに
と歌ったりするのは、そう歌うよりない無残な祖国に、ただ見切りを付けるのではなく、今も、これからもそんな祖国を引き受ける覚悟があってのことです。で、その無残な祖国なのですが、たとえば“僕の命を僕は見えない”“この一生だけでは辿りつけない”“命のバトン掴んで願いを引き継いでゆく”よりない祖国です。
新しい歌をアルバムにするその時々に、中島みゆきは“時代”を歌い込んできました。「パラダイスカフェ」(1996年10月18日)の場合は「阿檀の木の下で」でした。阿檀・アダンは沖縄に行ったりすると、海岸が砂浜と接する岩場でも、砂糖きびの畑が山と境を接するあたりでも、要するに沖縄島々のどんな場所にでも必ず見かける植物です。したたかで防風林にもなったりする、美味しそうでも実は食用には向かない、しかし存在感のある植物なのです。沖縄と沖縄の人たちを、そんなアダンにたくして歌ったのが「阿檀の木の下で」です。沖縄と沖縄の人たちをアダンの木にたくすのは、一見回りくどいのですが、歌の内容はとっても明解です。
波のかなたから流れてくるのは私の知らない寿歌ばかり
波のかなたから流れてくるのは私の知らない歌ばかり
遠い昔にこの島は戦争に負けて貢がれた
だれもだれも知らない日に決まった
薩摩により琉球支配、明治維新の琉球処分、アジア太平洋戦争の戦場となったことと、その後の沖縄をめぐる処遇がこれらの歌の言葉で明解に歌われています。
「わたしの子供になりなさい」(1998年3月18日)の場合だと、「命の別名」で、難しい状況を生きのびられない子どもたち、生きのびる子どもたちのことを歌っています。子どもたちの命を、子どもたちが生き延びさせなかったりする、そんな事実にも目が注がれています。
何かの足しにもなれずに生きて
何にもなれずに消えていく
石よ樹よ水よささやかな者たちよ
僕と生きてくれ
くり返す哀しみを照らす灯をかざせ
君にも僕にもすべての人にも
命につく名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも名もなき僕にも
と歌うことは、全く無力なのではなく、言葉になって歌われる時、全く届かないことはあり得ないことを、歌い手はどこかで確信しているのです。と言うか、言葉を聞きたいと、歌に耳を傾けたいと、切に願っている人たちがいることに、心から応答したいという願いが、これらの言葉になって歌われているのです。「わたしの子どもになりなさい」の中には、ほとんど普通には歌われることがないだろうし、他の誰も歌ったりしない「4,2,3」が入っています。1997年4月23日に結末を迎えた、チリの日本大使館人質事件の歌です。事件は“犯人”全員が殺され、チリ兵士数人が死亡し、人質は全員無事救出されるという結果になりました。
リポーターは日本人が手を振っていますとだけ嬉々として語り続ける
しかし見知らぬ日本人の無事を喜ぶ心がある人たちが何故
救け出してくれた見知らぬ人には心を払うことがないのだろう
この国は危ない
何度でも同じあやまちを繰り返すだろう、平和を望むといいながら
慌てた時に 人は正体を顕す
歌われないことを承知で、歌いにくい歌をつくって、しかし解りやすく歌っているのです。
で、思うのですが、言葉が届かなかったり、歌が聞かれなかったりするのではなく、言葉にすること歌うことに怠惰なのではないかと。
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