「子どもを守れ」をことさら口にするようになったのは、2011年3月11日の東電福島の事故の時からです。あの事故、事故後を最も象徴するのは、子どもの生命を軽んじる人たちの行動、言葉の中にあったように思えたからです。東電福島の事故は、危険とされ、危険だから閉じ込めることになっていた、放射性物質を環境中に放出することになってしまいました。閉じ込められなくなったのです。事故の緊急対応も難しくなってしまいました。本来は急を要する事故対応も、放射性物質とその被曝の危険が難しくしてしまったのです。事故前に被曝についての理解や危険は自明の当然のことでしたから、事故直後、被曝については極めて敏感でした。直後、緊急を要する壊れた原子炉への対応を担ったのは東京消防庁の隊員たちでした。その危険で困難な役割を被曝を覚悟で担い、任務を果たした隊員たちのことでの記者会見で隊長は、「隊員たちを被曝させたことは、隊員たちはもちろんご家族の皆さまに申し訳ない」と言葉をつまらせ、涙をぬぐっていました。その時の隊員たちの中で、20 mSvを超える被曝をするという事例はありませんでした。
それからしばらくして、被曝を余儀なくされる福島を中心とする子どもたちのことで、「20 mSv」までは被曝許容範囲、安全だという専門家の意見をもとにした国の判断が示されました。自らは守る術を持たなくて、守られることに自分の生命のすべてをゆだねている子どもたちのことで、これは「子どもを守る」、社会・大人たちの責任の放棄であると思えてなりませんでした。子どもたちについて、絶対に安全であることを約束するのが、社会・大人としての役割であるはずです。清水真砂子が、子どもについて解り易く言い表しています。
「皆さんはたぶん、もう、ふり返らないでストンと腰を下ろすことはしないだとうと思います。でも幼い子どもはふり返らないで、ストンと腰を下ろします。私がちょっとひざをずらしたら、この子どうするんだろうと思うけれども、そんなこと全然疑わないで腰を下ろしますね。なぜそれが子どもにできるかといえば、たとえ短い時間でも、その子どもがたっぷりと愛されてきた、いつも受け入れられてきた、そのことのおかげだと思います。それが子どもにひとつの確信を生ましめた。自分はこの世界に受け入れられているんだと。小さい時にそういう確信があれば、何とか思春期までは生きのびられるような気がします。そのほとぼりで。いろんな疑いが生じてもそのほとぼりで生きられる。」(「幸福の書き方」清水真砂子/JICC(ジック)出版局)
安心して、決して疑うことをせず、すべてを社会・大人にゆだねているのが子どもたちであるとしたら、裏切ってはいけないのです。
東電福島の事故は、社会・大人の不始末の結果起こってしまった、取り返しのつかない放射能事故です。事故前にはあり得なかった、放射性物質に汚染され、日常的に被曝を余儀なくされる社会になってしまったのです。事故前は安全ではなかった被曝が、事故後も安全であり得ないのはもちろんです。なのに、子どもたちの被曝も避けられない事実と、簡単には収束しないのを見越して言われ始めたのが「20mSvまでは安全」という見解・主張です。子どもたちを何が何でも被爆から守るではなく、被曝する可能性のある社会で生きさせるというのが、国の東電福島の事故後の方針になりました。
今、放射線量が下がらない帰還困難区域のある市町村に、復興拠点作りが進められています。被曝を前提に、その積算線量を自己管理しながらそこでの生活を再開させる国の政策です。帰還困難区域は、50 mSv/年以上の区域で、事故から6年以上たった今もそれは変わりません。東電福島の事故前の、被曝への対応、基準として示されかつ守ることが義務付けられていたことの一つが「放射線管理区域」とその法規制です。事故前、「一般人」の日常の被曝上限は、1 mSv/年以内とされていましたが、「放射線管理区域」及びそこでの仕事に従事する人たち「放射線業務従事者」の被曝上限は、20 mSv/年以下とされていました。そこでは、飲食や長時間の滞在、子どもが出入りすることは許されない場所でした。東電福島の事故の後、子どもたちを含めて一般に人が生活する場所が広く汚染されてしまった為、その現実を優先し、子どもたちの被曝も、20 mSv/年以下は安全ということになりました。そんなことを「解りやすく」解説しているのが「放射線のひみつ」です(中川恵一、朝日出版社)。論点の一つは、普通に生活している人間は、「被ばくのリスクだけではなく、他にもたくさんのリスクが待ちかまえているのですから、その中の一つが被曝であり、より『まし』」という考え方に立てば、そんなに心配しないで、事故後も安心して過ごせる程度であるとします。ほぼ、こうした理解が主流になって、東電福島の事故後の子どもたちの被曝は容認されることになってしまいました。
東電福島の事故の後、福島県では18歳未満の子どもたちの甲状腺健康検査が継続して実施されています。その2巡目の本格検査の結果、避難区域に指定された13市町村の「甲状腺がんの疑い」が他地域を上回ることが判明しています。「東京電力福島第一原発事故による健康影響を調べる県民健康調査の甲状腺検査評価部会は30日(11月)、福島県で開かれた。2014(平成26)年度に始まった2巡目の甲状腺検査(本格調査)で、がん(悪性)、がんの疑いと診断された受診者の地域別割合は避難区域などに指定された13市町村が他地域を上回るとの分析結果が示された」「今年6月末現在の診断結果を基に①避難区域等13市町村、②中通り(田村、伊達両市、川俣町除く)、③浜通り(いわき、相馬両市、新地町除く)④会津地方――の4地域に分け、がんやがんの疑いとされた受診者の割合を調べた。」「10万人当たりの患者数は13市町村が49.2人(0.049%)で最も多く、中通り25.5人(0.020%)、浜通り19.6人(0.020%)、会津地方15.5人(0.016%)となった」(2017年12月1日、福島民報)。
東電福島の事故の前、子どもの甲状腺がんの発症は100万人に1人とされていました。福島県の健康調査で多いのは「本格検査」の結果、発見される場合が多いのだとされてきました。しかし、こうして発表されている患者数から、それが福島県の中でも避難区域13市町村で特に多いのは、事故による被曝が原因であることを一貫して否定してきた専門家・国などの評価が成り立たないことを物語っています。
子どもの命は守られていないのです。
人工放射線の被曝は、たとえ少量であっても人体に影響を与えます。例えば人間の生きものとしての微細な細胞の働きは、どんな微細であってもその働きに役割を厳格・厳密に働かせ、それによって生命体としての人間は維持されています。小さくても偉大なのです。人工放射線は、その微小な単位であっても人間の細胞と比べる時、圧倒的な力を持ち、容赦なくその力を行使します。たとえ低線量であっても、生命体としての人間の生命に影響力を行使するのです。避難区域13市町村の子どもたちの「甲状腺がん疑い他地域を上回る」はその結果であるのは明らかです。
子どもの命は守られていないのです。
子どもの命が守られないのが残念で、小さな声、小さな働きであっても、被曝する子どもたちのことでの不安、不安の声を聞くことに注意を払ってきました。郡山で始まった、「集団疎開裁判」に注目し、少しばかりですが応援してきました。折りバラの「子どもを守れ」の文字が届けられました。「子どもを守れ」のフェルトのワッペンには、たくさんの人たちが刺繍でその文字を一針一針縫い込みました。ワッペンは、たくさんの人たちに届けられ、帽子に、衣服に、カバンに取り付けられました。
「子どもを守れ」
「子どもを守れ」は、Gパンのポケットにも刺繍され、行く先々に、それぞれの主張で「子どもを守れ」をうったえることになりました。
2015年2月から、人間の尊厳を臆することなく言葉と行動にする沖縄の人たちの「辺野古新米軍基地建設反対」の座り込みに参加するようになった時のGパンも「子どもを守れ」でした。辺野古の米軍基地、キャンプ・シュワブのゲート前に座り込む沖縄の人たちが必ず口にすることの一つが、子どもたちが生きる未来に戦争の犠牲者を新たに生む出す軍事基地建設を認めない、許さないです。
「子どもを守れ」
「子どもを守れ」は、沖縄の自然の生きものたち、軍事基地の為埋め立てられようとしている大浦湾の海の生きものたち、米軍機が飛び交う山原(やんばる)の森の生きものたち、沖縄のゆったりと流れる時間の中をゆったりと生きるオオゴマダラなどと一緒に、辺野古・高江の座り込みに参加してきました。
2016年度に、小・中・高で35万のいじめ、200人を超える子どもたちが自ら生命を絶つこの国のこの社会で、「子どもを守れ」はただ空しく響くだけであってはならないはずです。
子どもを守れ
従順と平穏から
野性と至福とを奪うな
子どもを守れ
子どもを守れ
卑怯と暴力から
始源と鮮烈とを奪うな
子どもを守れ
子どもを守れ
裏切りと絶望から
呼吸と静寂とを奪うな
子どもを守れ
子どもを守れ
扇動と戦争から
孤独と共感とを奪うな
子どもを守れ
子どもを守れ
子どもを守れ
子どもを守れ
子どもを守れ
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