兵庫県被災者連絡会の河村宗治郎さんが亡くなられました。病身を押して、大地震から23年の神戸市役所前で集まってくる被災した人たちを迎える準備をし、被災者の旗をかかげる準備をしていたのに、残念、無念であったに違いありません。
河村宗治郎という人がいることを知ったのは、1995年3月ごろのことでした。被災した人たちの多くが、それぞれに避難している先で、行政、そしてボランティアとしてかけつける人たちの助けをすべて受け身で待っている時に、被災した人間の声を自ら発すること、自ら助けを求める人がいたことに驚いて喜んだ、そんな人の情報としてでした。23年前のあの頃、被災した人たちの多くは、それぞれに緊急に避難することになったその場所で、縮こまるようにして着の身着のまま寒さに耐え、どこかから来るであろう助けを待っていました。たまたま訪れることになった兵庫県庁2号館ロビーにもそんな人たちが避難していました。2号館は、5階が災害対策本部、6階は知事室などになっていて、23年前のその時、しばらくいるだけで汗ばむくらいの暖房で、たまたま見つけた会議の資料には、記者会見以外すべて×印でした。なす術がないまま、会議だけは行われていたのです。その2号館に避難している人たちの1階ロビーの暖房は切られ、柱には「ここは避難所ではないので、所定の避難所に移るように」とそれを促す張り紙がしてありました。立ち去るように促され、寒さに身を寄せあっている人たちには、翌日、石油ストーブと灯油などを届けたりしました。局地的とはいえ、震度7の極大の破壊力を持った地震で、およそ30万人の人たちが避難することになりました。所定の避難所では間に合わなくて、神戸市中央区の県庁周辺の被災者の一部は、県庁2号館ロビーに避難することになりました。
河村宗治郎さんは、自宅は大きな損傷を受けたものの、全く住めない状態ではありませんでした。その河村さんの住居の目の前が本町公園です。その公園の避難している人たちの状態を見るに見かねるようにして、被災した人たちとの付き合い、自分でも被災者として生きることが始まりました。そうして目の当たりにするのが、“マニュアル”(それが間に合わないにもかかわらず)でしか対応しない行政、そんな行政からの合図を受け身で待ち続ける人たちの中で、すべてにおいて、自立した人生を生きてきた河村宗治郎さんの闘いが始まります。例えば、本町公園がそうであったように、所定の避難場所には入り切れなくて公園に避難している人たちに、緊急の救援物資は届きませんでした。食べ物はもちろん、寒さの中雨露をしのぐテントなども、声を大にして交渉しない限り、放置されることになりました。だから必要とするテントで、公園や体育館からはみ出した人たちが生活する中で、個々にではなく、厳しい条件のもとにある人たちが連絡を取り合う情報と河村宗治郎さんのことなどが聞こえてきて、さっそく会うことになったのが、1995年3月頃だったのです。
自然災害などでたくさんの人たちが亡くなる一方、住居を失った人たちに提供されるのが仮設住宅です。兵庫県南部大地震では、およそ40,000戸の仮設住宅が建設されることになります。しかし、それは想定を超える被災への対応になりますから、今必要である人たちの今には間に合いませんでした。公園のテントでの生活が長引くことになったのです。そんな生活条件を、今、少しでもより良くする為の提案、願いを、マニュアルで働く行政は頑として聞き入れませんでした。
そんな中で、やはりマニュアル通り進められて行ったのが、災害救助法適用の終結、その結果として、4000人近くの人たちの避難が続く中での避難所の閉鎖などが相次ぎ、河村宗治郎さんなどによって結成された兵庫県被災者連絡会に集まった人たちは激しく抵抗します。そんな時の河村宗治郎さんが自らに課したのは「一人の被災者も取り残さない」を、自分も被災者として生きて貫くことでした。そんなことの結果として、日本基督教団が大地震の災害対策で実施したのが、本町公園、下中島公園などに避難している被災者が、自分たちの手で公園に仮設の建物を建てる資材の提供でした。何よりも大切にしたのは、被災し、避難した人たちの生活に配慮することでした。たとえば、共同使用の炊事場やトイレは不便ではあったとしても、その場所で生活しながら言葉を交わす関係が生まれやすいということでは、遠隔地に建てられ生活するのにはすべてにおいて不便だった仮設住宅とは比べ物になりませんでした。河村宗治郎さんと被災者連絡会は、行政のそんな政策にも強く反対し続けました。
その応急仮設住宅も、災害救助法で決められた通り解消になり、住んでいた人たちは有無を言わさず次の住居に移らざるを得なくなります。高齢で一人暮らしの多い仮設の住居から、行政・マニュアルがそうだからと言って退去を余儀なくされるのを河村宗治郎さんたちは目の当たりにして、時に激しく怒ります。生活を奪われ、生活が成り立ちにくい仮設住宅の生活で、たくさんの一人暮らしの人たち高齢者が孤独死して行ったのですから。
亡くなった河村宗治郎さんの通夜、葬式の営まれた、長田区大丸町の玉龍寺本堂の壁には「慈悲あり、悲しみある『怒りは』人とつながる」「慈悲あり、怒りある『悲しみは』諦めを生まない」と書かれた紙がはられていました。通夜の読経の後の講話で、住職の五百井さんは、この言葉を、河村宗治郎さんの生きざまとして紹介しておられました。
翌日の葬式の始まる前、すぐ隣の人たちがひそひそ「ここの坊さん、ちょっと変わってるよ。読経の後、河村さんのことちゃんとした紹介してはった」と話しているのが聞こえました。玉龍寺、五百井さんたち浄土真宗大谷派の人たちは、早くから、下中島公園に避難している田中健吾さんたちを支援してきました。その時だけではなく、ずっと継続して、下中島公園、被災者連絡会を支援してきたのも、五百井さんたち浄土真宗大谷派の人たちです。被災者連絡会副会長だった田中健吾さんが亡くなった時の通夜、葬式も玉龍寺でした。更に、玉龍寺、五百井さんたちは日常的にも被災者連絡会を支援してきました。毎年、1月17日の神戸市役所前の被災者の集まりの準備も玉龍寺、そして遠方から駆けつける支援者に宿舎を提供してきたのも玉龍寺です。五百井さんたち真宗大谷派の人たちは、兵庫県南部大地震の被災者を「一人の被災者も取り残さない」とする河村宗治郎さんを他の誰よりも理解し、今日に到るまで支援し続けてきて通夜の時の河村さんの紹介になりました。五百井さんは、通夜の講話で、2007年に真宗大谷派が開催した「災害から教えられた今日的課題を学び、ともに提言し、共に協働することを願いとして『災害支援を考える集い』」の講師として河村宗治郎さんを呼んだことを話しました。その時の講義の題が「弱い者は手を取り合って、ちゃんと守っていこうや」です。
「一人の被災者も取り残さない」を、自らも被災者として生きたのが河村宗治郎さんで、「弱い者は手を取り合って、ちゃんと守っていこうや」を、弱い者たちの中に身を置いて生き、そのことにおいては一歩もゆずらず、神戸電鉄鵯越駅近くの狭い古い住宅の一室で、81歳で亡くなられました。多くはありませんでしたが、「弱い者は手を取り合って、ちゃんと守っていこうや」という、河村宗治郎さんが生きて貫いた生き方に共感する人たちが、そこには付き添っていました。
河村宗治郎さんとは長い付き合いになりましたが、必要とされる役割を果たせた訳ではありません。ただ、その時々の被災した人たちと生きる現場、行政などとの激しいやり取りの中で示される、「思想」を、少しでも形にして残したいということで「河村宗治郎/被災者であり被災者といっしょに生きてきた河村宗治郎を語る」を3回にわたって語っていただき、一冊にまとめて発行することができました。なにしろ全くの手作りの冊子で、多くは作れませんでしたし、ほんの少ししか残っていないのが残念です。ただ、この冊子の表紙カバーになった、本町公園の絵は、五百井さんの配慮で、葬式に“供花”に代わるものとして掲示していただくことができました。
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