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2018年03月04週
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 およそ7年間で10331個、国産小麦、白神こだま酵母、篠山市後川(しつかわ)の水、マキ窯でパンを焼き、東北の被災地に届けてきた働きは一旦終了することになりました。そのパンには、2011年6月4日に東北福島の危険な事故現場で被ばくを余儀なくされながら、危険な作業に追われる作業員の皆さんに届けた1000個も含まれます。その時に、一緒に届けたのが折り紙のバラと、切手を添えたレターセットです。届けたレターセットを使い、100人を超える作業員の皆さんや、心配するご家族の皆さんからも、返信の便りが届けられました。その中には、事故の東電福島の所長で、亡くなられた吉田昌郎(よしだまさお)さんの便りも含まれています。
 パンを焼いてきたのは、西宮公同幼稚園の現役、卒園した子どもたちの保護者の皆さんでした。マキ窯パンのパン焼き隊で、通称は“アルトス”でした。アルトスは、ギリシャ語のパン“άρτος”からです。パン焼き隊は、大きくは2つのグループに分けられます。パンを焼く日に朝8時には集まって、前日か、前々日にそれぞれの材料を計量して1個分ずつ用意しておいた小麦粉、白神こだま酵母、少量の砂糖、塩をこね始めます。発酵を待ち、膨らんだパンを成型して焼くのを待ちます。マキで焼くパン窯は同じく朝8時ごろからマキを燃やし、窯を温め始めます。割り箸ぐらいの細く割ったマキに火をつけることから始まり、徐々に火を大きくします。マキが太くなり、更に火が大きくなります。季節によって、燃やしはじめの温度が異なります。夏には20度を超えていたのに、冬になると0度を下回るところからの始まりになります。
 1995年に導入された焼却炉は、地震で壊れた木造家屋の廃材を燃やし、焼却炉を冷却する水を温水にもできる焼却炉でした。被災し、幼稚園などに避難している人たちの風呂として使うのが目的でした。温水は、幼稚園の2階のプールまでポンプで吸い上げ、6.5メートル×3.5メートルのプールが、大浴場になったりもしました。その焼却炉を使う機会が少なくなっておよそ15年、腐食で水漏れしたりするため、廃棄することの検討も始まっていました。そんな折に、ふと思い立ち焼却炉の製造元に「これをパン窯にできませんか」と、問い合わせてみたところ、「たぶん可能だ!」とのことでした。図面と、見積もりが届き、「お願い!」することになり、2010年末に焼却炉がパン窯になって帰ってきました。そして、年末から試作をしてみることになりましたが、その頃に、たまたま書棚の隅っこで見つかったのが「白神こだま酵母でパンを焼く―国産小麦がふんわりやわらか」(大塚せつ子:著、農山漁村文化協会、第2版 2002年)です。幼稚園などで、もしパンを焼くことがあれば卵や牛乳を使わないところがピッタリのパン酵母だったのです。その白神こだま酵母は、当初、奥付けで紹介されていた「東京ハンズ新宿店」で入手することになりました。たまたま出かけることになって東京に向かう新幹線の中から電話をして、在庫していることも確認できました。そんな具合で「国産小麦、白神こだま酵母」のことが話題になっている時に「わたし、パンを焼きたかった!」と手を挙げる人がいて、完璧、正確無比の準備で「パン焼き隊」を結成し、隊長をしてくださったのが山下雅子さんです。そんな時の2011年3月に起こってしまったのが、東北の大地震、大津波、そして東電福島の事故でした。
 自然の力の前で、人間はひとたまりもなかったこと、東電福島の事故は人間の知恵が取り返しのつかない環境の汚染を引き起こした事故です。放射能を人間と自然の世界にまき散らし、人間の力が人間に襲い掛かる東電福島の事故に「国産小麦、白神こだま酵母、水、マキ窯」は、起こってしまった事実に対する問いかけであるように思えました。で、始まったのが、西宮公同幼稚園の保護者を中心に集まった人たちによって結成された「パン焼き隊・アルトス」の、パンを焼いて東北の人たちに届ける働きでした。自然災害で被災した人たちへの働きかけは、1995年1月の兵庫県南部大地震の体験から、たやすくはないことを知らされていました。支援される側と支援する側とが、互いの思いの離れないところで出会い、それを実現し具体化することは、中でも内容を共有することは、なかなか難しいのです。23年前に被災者になり、その後の国内外の自然災害の後を生きる人たちを応援するにあたって、外せない課題にして心がけてきたのは、「直接、被災した人たちに届く支援(手渡す!)」でした。1995年3月に設立された兵庫県南部大地震ボランティアセンターは、そのことで国の内外で起こり続ける被災地の人たちを見つめ、出会う挑戦をしてきました。1998年のトルコ中西部大地震の時、兵庫県は、一旦使い、撤収していた日本製の日本仕様の応急仮設住宅3,500戸をトルコに提供しました。トルコの地震の2週間後、トルコの被災地に3名のスタッフを送り、つぶさに見聞きした経験をもとに、そして応急仮設住宅の情報を知ったうえで、トルコ共和国北西部マルマラ地方の被災地アダパザルでそれが再建される現場に、外務省、国際協力機構(JICA)、そしてトルコ政府と情報を交換しながら、約1ヶ月間、日本の「大工」を兵庫県南部大地震ボランティアセンターが中心になって派遣することになったのです。ほんのささやかな働きでしたが、国を超えて「直接、被災者に届く支援」を実現する働きであったように思えます。
(次週につづく)

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