(先週よりの続き)
およそ20年毎に、噴火を繰り返してきたのが、三宅島です。前回の噴火は、2002年で老若男女、全島民が避難することになりました。この時の支援は、18歳以下の子どもたちに特定して実施することになり、ささやかな支援は、避難が解除になり、2002年の時に生まれ、生きた噴火の体験のない世代が18歳を超える今も継続しています。三宅島はおよそ20年毎に噴火を繰り返してきた、いつ噴火しても不思議ではない、火山の島です。三宅島の人たちは、怯えるように生活をし、次の噴火を待っている訳ではありません。三宅島から招いた三宅島ふるさと再生ネットワーク会長の佐藤就之(さとうしゅうし)さんから教えてもらったのは、三宅島の自然とそこで生きる人たちは、大きな建物や賑やかな遊び場所がない(噴火が繰り返される為、建設が難しいの現実!)、そこで生活する人間のその時間が取り囲む自然と共存する、そんな場所であることでした。そんな自然と時間を大切にする人たちと出会い続けるのは、想いを届ける側にとっても、かけがえのない財産になります。昨年も、篠山市後川(しつかわ)のポップコーン(はぜとうもろこし)、沖縄県国頭村の琉球松を電動糸のこで切った、いぬの組み木(デザイン:組み木作家、小黒三郎)を届けました。
東北の大地震、大津波、そして東電福島の事故から7年経った今、多くの地域が「避難解除」になりましたが、飯舘村の場合も実際に村に戻って居住する住民は、10%未満です。避難している子どもたちの一部は、飯舘村で再開される統合した3つの小学校、中学校に4月から通学することになっています。そんな飯舘村の小学生(5年生)の図工の授業を協力してきました。おもちゃの組み木作家であり、デザイナーである小黒三郎さんの、木、デザイン、実際に木を切って、おもちゃの組み木を作る授業です。4年間実施したこの授業は、飯舘村に戻る小学生の授業として、2018年度も実施することが決まっています。飯舘村の小学生(その当時、約200人)にもパンを届けたことがあります。
パンをお届けしていた方の一人が武藤類子さん、そして仲間の人たちでした。東電福島の事故の前、武藤さんたちが見つけ、取り囲む自然と共存する時間と過ごすことになった場所が福島県三春町の森林でした。森林を自力で切り開き、ほぼ自給に近い生活が可能になり始めたその時に起こったのが、東電福島の事故です。そんな三春町にまで、隅無く降り注いだ東電福島の事故の放射能の毒は、三春町の武藤類子さんたちの森林も住めなくしてしまいました。森林で電気に頼らない生活を心がけていた武藤類子さんたちにとって、原発は当然許せない存在でした。まさしく、その原発の放射能によって自分たちの手で築き上げた森林での生活が壊されてしまいました。その悲しみや怒りを誰よりも強く訴えることになったのが「福島原発告訴団」の告訴です。東電福島の事故の当事者である東電はもちろん、原子力発電を推進してきた国を告訴した時、司法もまた事故責任の回避を追認しました。そんな状況でひるまず諦めず、立ち向かい続ける人たちの中に自分の言葉で立ち続けてきたのが武藤類子さんです。どんなに困難で差し追った時も、事態を自分で受けと、自分の言葉で返す武藤類子さんの姿に、たくさんの人たちが励まされ、もう一度、もう一度とそれぞれが自分の言葉を探し出し、自分に立ち戻り自分の言葉で語ろうとしてきました。パンを届けてきた武藤類子さんからの便りです。
武藤類子さんたちが告訴した東電福島の事故を、検察官が2度にわたって不起訴処分にしたのを受け、もう一つの手段である検察審査会に提訴しました。それも容易くはなく2度目の審査でやっと強制起訴が決まりました。その初公判が事件から6年余り経った2017年6月30日でした。現在、福島原発刑事訴訟裁判は東京地裁で審理が進められています。4、5、6月と月に4~5回の審理を行う過密裁判が全国から集まった傍聴の人たちの厳しい目の前で進められています。福島原発刑事訴訟のことは、一般の新聞等ではほとんど報道されることはありません。ぜひ、「福島原発刑事訴訟支援団」に入会し、情報の共有と支援する仲間の一人になってください。
お問合せ先は、福島原発刑事訴訟支援団
住所:〒963-4316 福島県田村市船引町芦沢字小倉140-1
メール:info@shien-dan.org
[バックナンバーを表示する]