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小さな手大きな手

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2018年04月02週
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 西宮公同教会のお世話になるのは、5年目の大学となる1968年4月からで、教会の皆さんの家庭に招いていただいたり、ちょっとしたお手伝いでアルバイト代をいただいたり、大切にしていただいたのは、身に余る思いでした。そして、1968年10月に5年半お世話になった、関西学院大学神学部を卒業することになりました。卒業延期になっていた10人ほどが、大学本部で、学院長、学長、それぞれの学部長から卒業証書を手渡されたのですが、古武弥生学長からは「…君、卒業できてよかったね!」と特別に声をかけていただきました。たぶん、少し前の薬学部闘争の徹夜の団交の時のやりとりで、「…君、水を飲ませることはできない」とご自分が答えた時の学生だったと気付いたのだと思います。この徹夜の団交の時、たまたま柔道部の練習の帰りに、電気がついたままの大学中央講堂をのぞいてしまった学生が、後に、西宮公同教会の顧問弁護士を引き受けて下さった、上野勝先生です。(徹夜の団交の時のやりとりを見て「…あんたおもしろい!」と言った上野さんとは、その後、狭山差別裁判の日比谷野音の集会でばったり出会い、司法修習中でしたが、弁護士になってすぐから、4,5人の仲間と長い間、およそ25年間西宮で起こった「甲山事件」の中心になって働き、完全無罪を勝ちとりました。
 大学を卒業する時、担当の教授は「君は、実践に向いている」とおっしゃってくれましたが、教師(牧師)試験の推薦も当面の仕事の紹介もしてくれませんでした。そうして始まった「空白」の半年の後の1969年から始まったのが「大学闘争」です。日大、東大などがバリケード封鎖に突入する中、関西学院でも、学部単位で順次バリケード封鎖が始まり、神学部のバリケード封鎖の学生集会では、卒業生でしたがバリケード封鎖に向けての発言もさせてもらい、2月から5月まで、バリケードの中で生活していました。封鎖の始まる前の2月には、バリケード封鎖の中から教団の教師試験に出かけたりしていて、面接で参加の有無なども聞かれました。
 関西学院は、5月に機動隊によってバリケードは完全解除になり、「住居」がなくなったこともあり、友人の紹介で神戸の薬局の店番や配達の仕事など店員として働くことになりました。(ここでは、経営者、一緒に働く人たちなどから、とても大切にしてもらい、7年半働かせてもらうことになります)。
 その間に起こった(起こした!)のが、教団の教師問題でした。当時、教団の教師(牧師)試験で、関西学院など「認可神学校」の場合は、大学からの「推薦」が受験の条件になっていました。試験が終わった後「事情が変わったので」と大学が推薦を「保留」にし、合格も「保留」になってしまいます(本当は、バリケード封鎖に加わっていたことを理由に)。当人は、受験したことも忘れていたのですが、たまたま当時の日本基督教団の書記に教えてもらって解ってしまいました。それから、長い長い、教師問題の闘いが始まり、今もそれが続いています。そうして始まった教師「問題」は、「保留」が撤回されないことの抗議で、受験を粉砕した結果「不合格」になってしまいますが、要求・闘いをエスカレートさせ、教団本部(当時は、銀座4丁目の教文館ビルの中)の封鎖で迫った結果、「合格」になりました。
 「保留」「不合格」「合格」で、教団の教師(正・補の補教師)にならせてもらい、40年間「補教師」のままです。この、正・補教師は、以上のような「経験者」にとっては、どうということはない問題ですが、日本基督教団には「大問題」で、たとえば補教師は、教会が「生命線」だとする「洗礼」「聖餐」(いわゆる聖礼典)などはしてはいけないことになっています。現在も、意図的に正教師試験を受験しない補教師が少なからずいて、「教師問題」としてくすぶり続けています。たぶん、何よりの理由は、教団の「規則」としてありますが、それを根拠づける確たる理由が、聖書などからは導き出せないからです。たとえばイエスは「先生」などと呼びかけられたりしますが、たぶんそれは当時のユダヤ教社会の呼称であったものがそのまま当てはめられているのでしょうが、イエスから始まる新しい宗教、キリスト教の呼称としての根拠になりにくいのです。ましてや、「聖礼典」と言われているものの何一つ、イエスあるいはその教え(らしきもの)に根拠を見出すことはできません。ですから、補教師であること、その働きを全く限定したり、否定することもできないのです。
 大学闘争の時代に、ほぼ同時進行で阪神間の教会を横断するように活動がはじまっていた、教会の青年たちの「闘う組織」が「自立的キリスト者青年同盟」で、教会の改革、社会、情況への発言を強く求めていました。1970年の第25回兵庫教区総会での「青年たちを含め議場にいるすべての人を、議員・正議員として認める」要求になり、夜を徹した会議の結果、それを認めるという議長の決定になりました。兵庫教区は、それ以降、開かれた会議の形を取り続けて今日に到っています。1993年には、補教師の聖礼典について、「当該教会の決定を尊重する」ことを、教区としての決定にしています。西宮公同教会が、1973年に決定し、教会の内規としてきた「総会日に出席した人すべての総意」は、兵庫教区でも今日に到るまで、その主旨は尊重されることになりました。
 時代を生きて「社会・情況への発言」は、広く社会ではなく、教会を「守備範囲」に限定してきたように思います。今、自分たちが、「生活」の場としているところを超えてではなく、生活の場をえぐることが、社会・情況に肉迫することになるだろうという意味においてです。
(続きは、次週に)
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