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2018年04月04週
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    西宮公同教会付属 西宮公同幼稚園園長を辞任するにあたって

 西宮公同教会に顔を覗かせるようになってからだと40年「園長」ということで仕事をするようになっておよそ35年になる仕事は、教会の仕事と相互につながるものでしたから、担任教師主任の辞任に合わせて、辞任させていただきます。竹花さんを迎えることでは、4月以降も副園長として、限定した仕事をさせていただくことになっていましたが、4月末をもって辞任いたします。
 およそ40年間、教会の仕事の一つとして働いてきた40年間のことのおおよそを振り返ってみます。教会、教会学校、幼稚園などの働きで、自然の中で生きることが大切だとしてきたのは、子どもの頃の生活体験からでした。耕作面積が少なくて、農業では成り立たない貧しい村は、戦争に負けた後の日本で、田んぼや畑を耕しているにもかかわらず食べるものが足りませんでした。子どもたちは、春を待って里の山に入り、春はイチゴなど、秋には芝栗、アケビなどを探し回っていました。貧しい村では、手作りの伝統が生きており、大人から子どもたちの世界に「道具を使って作る」ことが、生活の中で伝えられていました。
 教会、中でも教会学校、幼稚園の仕事では、「自然の素材で遊ぶ」「道具を使って作る」「自然を子どもたちが遊び生活する場所とする」ことになったのは、たぶん子どもの頃の生活体験が自然に生きることになったからです。その場合の自然は、人間が弄ぶ手段としての自然ではありませんでした。自然の中で生きる時の命の尊厳、魂にまで届く自然からの使信、そうした尊厳使信を、貧しい村で生きる先輩たちの言葉、振る舞いから、生活の中で学び、教えられてきました。母親もまたそれを手ほどきする先輩の一人でした。

       花を育てることが
             好きな人でした
       念仏を唱えることが
             好きな人でした
       惜しまず働くことが
             好きな人でした
       田んぼが 畑が 里山が
             好きな人でした
       幼いものを抱き育むのが
             好きな人でした

       生きて耐えて先に逝ってしまったことを
      御報告申し上げます

       菅沢とし子 2004年3月10日永眠 81歳

  2004年3月13日
                             菅沢佐門
                             菅沢裕明
                             浜野悦子
                             菅沢邦明

 教会、中でも教会学校とつながる活動の多くは、貧しい村で生きる先輩たちの生活の技を、その時の光景を思い出しながら、そして失敗を繰り返しながら、子どもたちの生活の中で再現することになりました。
 山の中に足を踏み入れて実のなる木を探すこと、木に登って実を手にすること、どんな葉っぱのどんなツルに食べられる実がつくこと(大小の木苺が六甲の小さな谷にも見つかります)、山道の歩き方、そして比較的早い時期から始まった幼稚園の畑は、今も鍬を振って耕しますが、貧しい村の作業で耕す働き手は、子どもたちも例外なく「労働者」の一人でした。子どもの頃に、大人たちの仕事ぶりを見ていた体験が体の一部に負担をかけるのではない使い方、働き手のいっぱいの学習になっていました。村の人たちは、生活の中で刃物、道具を使い分け、その手入れも怠りませんでした。決して、高価な道具ではありませんでしたが、普段の手入れを怠らない道具は、村の人たちにとって自分たちの体と同じ「宝物」だったのです。貧しい村の子どもたちは、貧しさを身に染みて知っていましたが、それでも、本当によく遊んでいました。遊びの道具を買ってもらうということもありませんでしたから、遊び道具もすべて手作りでした。こまや竹馬はもちろん、鳥かごも手作り、雪で遊ぶそりもスキー板も手作りです。その時に欠かせないのが刃物で、刃物は子どもたちにとっても、身近で高価ではありませんでしたが、研いで使うものであることを知っていました。
 こうした様々な子どもの頃の生活の中での体験が、西宮での子どもたちの今の生活、遊びの中に、形を変えて生かされることになります。生かされることになったのだと思います。そして、どんな場合も結果ではなく、素材から始まって、例えば生活、遊びの道具に整えられるまでを、子どもたちと体験しながら積み重ねることを尊重してきました。幼稚園の畑は、西宮のこのあたりでは見つかりにくい土地を探し回ったり、提供してくださる人があったりで、場所を移しながら(5代目)今も続いています。今、畑ではイチゴの白い花が咲いています。子どもたちはそこで、「イチゴ狩り」をしません。前の年の11月に耕された畑に苗を植えて寒い冬を耐えるため「防寒対策」で葉っぱを赤くしたイチゴを励まし、自分たちも励まされ、春になって花を咲かせるイチゴに期待を膨らませ、同時に始まっている生命のつなぐ営みとしてのランナー(親株から伸びているつる)と、それを摘むことにも付き合い、極上のイチゴを味わう時を迎えます。
 こうしたことの一つ一つは、西宮公同幼稚園の30~40年の歴史のかけがえのない歩みではあったと思えます。
 園長を辞任するにあたり、副園長として残らせてもらうことにしていたのは、例えばこうした働きに限定、特化し、1年、2年の単位で担うことを想定していましたが、教会の担任教師辞任に合わせて辞任いたします。
 4月に入り、これらのことはすべて不確定なまま様子を見ることになりましたが、西宮公同幼稚園のここ30~40年間に刻まれてきた「自然」を軸とした営みは消滅させにくいものであるように思えました。今後は、幼稚園理事として残ることになりますが、総務的なことを担当する理事(有給)として、幼稚園の自然を軸とした営みの現場で先生たちの要望を基に、直接それらのことを担当させていただきます。この場合の総務的なことの担当の範囲については、その時々の判断も含め任せていただくことになります。
 なお、この度の幼稚園園長の辞任にあたり、一緒に働かせていただいた経緯から、本来は菅澤順子さんも一緒に辞任することが望ましいのですが、幼稚園の現場の状況及び、直ちに後任が得られない現状から、4月以降、菅澤順子さんが当面の園長を引き受けてもらうことになっていました。
 この場合、「幼稚園の現場の状況、及び直ちには後任が得られない現状」で、菅澤順子さんに「残っていただく期間」は、菅澤順子さんが中心になって保育現場を引っ張って行く期間ではありません。限られた時間の中で「若い人たちが、伸び伸びと自分たちの力で、自分たちの保育現場を作り出していく」そのことの応援、手助けをしていただく、そんな期間、時間というように理解しておりますし、現場の先生たち、菅澤順子さんにもそのように理解、覚悟をしていただくことになります。いずれにせよ、子どもたちや若い先生たちの前に立つとき、卓越した力で魅了する人材であることには、今までもこれからも変わることはありません。
 菅澤順子さんの園長就任にあたって、今まで設けていなかった職務として、幼稚園に「主任」を置くこと、主任の役割は、幼稚園の現場で働いている人たちの仕事、及び内容の調整、勤務時間などが守られるよう、現場に身を置いて不断に現場で働く人たちの立場で調整する役割・職務であることを本人とも確認しており、「主任」を平岡雅子さんにお願いすることになりました。
 尚、西宮公同教会の仕事としては、担任教師主任を辞任しますが、後任の得られない状況で、主任担任教師代務として、今までとほぼ同じように働かせていただくことになります。(教会付属幼稚園の仕事としては、教会牧師としての役割、幼稚園理事など)
                             2018年4月15日
                               菅澤邦明


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