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小さな手大きな手

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2018年05月03週
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(前週よりの続き)
 「連休」で、なんとなくほっとしている時、きっちり読まずに本棚に並んでいたのが「露の身ながら」であり、同じ柳澤桂子の「いのちの日記」でした。更に、「いのちの日記」の黒が基調の表紙の装丁で気づいていなかったのが、サブタイトルの「神の前で、神と共に、神なして生きる」です。やっと気づいて、確かそんなことを書いていた人がいたなと思い、ページをめくっていると紹介されていたのが、ディートリッヒ・ボンヘッファーでした。なつかしい名前です。20代前後の頃、キリスト教に関係する本で、本気で読んでいたのが、ボンヘッファーの著作集で、たぶん誰よりも影響を受けていたのだと思います。1968年10月に大学を卒業させてもらい、1969年の大学闘争では、渦中にいたそのままの人生に突入してしまいました。キリスト教の世界にはいましたが、いわゆるキリスト教的な者の考え方は、大学闘争では否定する対象でしたから、その後キリスト教的な本を読むこともありませんでした。が、柳澤桂子の「いのちの日記」のサブタイトル「神の前で、神と共に、神なしで生きる」は、ディートリッヒ・ボンヘッファーの言葉としてありありとよみがえってくることになりました。で、本棚の隅っこに、余計者のように並べられていた、著作集、伝記をひっぱり出してきて読む「連休」中の本の仲間になりました。読み直しが始まったところですが、20代前後の頃「生きる」ことでも影響を受けて生きて、その後も、ボンヘッファーの書物と言うよりは、ボンヘッファーの生き方そのものに影響を受けて生きてきたらしいことを、著作集の読み直し、中でも「獄中書簡」で、思いを新たにしています。で、今「獄中書簡」と「伝記」を同時進行で、少しずつ読んでいるところです。始まりは、柳澤桂子の「いのちの日記/神の前で、神と共に、神なしで生きる」です。
その柳澤桂子が「いのちの日記」のサブタイトルとしたのが、「神の前で、神と共に、神なしで生きる」です。ディートリヒ・ボンヘッファーが「獄中書簡」で書き残した言葉です。この言葉に出会って、考え悩み干してきたいわゆる信仰ではない、神についての理解、定義に納得します。ボンヘッファーはいくつかの表現で、これを補足ないし言い換えているのですが、その水は「…彼は特権的な階層の人たちから離れて、見棄てられた人たちと同じ食卓に就きたもう」「ナザレのイエスとその現在に自分はくみする」などだったりします。
 西宮公同教会のすべての活動(総合ということ)において、それが教会の活動であることの定義をその都度はしてきませんでした。2018年度の教会定期総会資料を聞いてみた時、すべての項目において活動が報告されることがあっても、一つ一つが教会の活動であることが具体的な言葉として報告されることも、報告を求めることもありませんでした。キリスト教会の場合は、活動の現状、結果としての「態勢」として報告されるのが一般的です。
 一つ一つの活動が、その働き(使命)を全うすることが即ち教会の活動であると理解されてきましたからいわゆる「教勢」は問わなかったのです。西宮公同教会の公益活動の中心である付属幼稚園の場合、「子どもたちの命と生活を守る」ことが、即ち教会付属の幼稚園であって、それが教会の活動であるのは自明のことであって、その都度の定義を必要としなかったからです。ただ、そのことは別の言葉で「神の前で、神と共に、神なしで生きる」が、西宮公同教会付属幼稚園のこととしては、「子どもたちの命と生活を守る」に言い換えられることが出来ます。もちろん、「子どもたちの命と生活を守る(守られる)」は、言い換えられた言葉であるだけでなく、日々の生活の中で、具体的な活動を積み重ね実現していくこと、子どもたちの命が脅かされ、生活を脅かされるような現実があれば、それを明らかにし時にはひるまず闘うことでもあり、たぶんそんな一歩一歩を刻むことが西宮公同教会と付属西宮公同幼稚園の歩みであったはずです。
環境汚染は放射能だけではないことを私たちはよく知っています。
なぜ食べ物にいろいろな添加物をいれなければならないのでしょうか。
なぜ作物に農薬をまき散らさなければならないのでしょうか。
なぜ放射能を照射したジャガイモを食べなければならないのでしょうか。
なぜクリスマスにみごとなイチゴを食べなければならないのでしょうか。
食べ物の旬はどこへいってしまったのでしょうか。
私たちは、なぜいながらにして、世界中のおいしいものを食べなければならないのでしょうか。
なぜ「ぬかみそ」をモーターでかきまぜなければならないのでしょうか。
消費電力の問題ではありません。こころの問題です。
いまに、ペットを撫でる電気器具だとか子供のお尻をたたく電気器具ができるのかもしれません。
勉強をはじめる前に鉛筆をきれいに削ることは、こころを静め、気持ちを引きしめて、勉強をするのだという心構えを導きだしてくれました。電気鉛筆削りによって、この厳かな儀式は失われてしまいました。
(「いのちと放射能」著:柳澤桂子、筑摩書房)

 これらのことで言えば、「いちご摘み」は畑を耕すこと(土づくり)から始まり、苗を植え、寒い冬を越える時の一つ一つの営みを見つめ、春、緑の葉っぱに変わり、白い花が咲き、緑、白、赤と摘んで食べるいちごのすべてを見つめ体験するすべての営み(新宮 晋の絵本「いちご」が描く)に付き合うのは、「子どもたちの命と生活すを守る」そして、「神の前で、神と共に、神なしで生きる」営みそのものということになります。また、山であったり、川であったり、海であったりと、広い自然の中に一歩踏み出し、時には登ったり、走ったりするのもすべて「子どもたちの命と生活を守る」生きた営みであると理解してきました。それが西宮公同教会、そして付属西宮公同幼稚園の「神の前で、神と共に、神なしで生きる」そのものでもあるのです。
 そして、「子どもたちの命と生活を守る」その現場が、自然のあるべき姿として守られているかどうかにも、強い関心を持ち続けてきました。「子どもたちの命と生活を守る」「神の前で、神と共に、神なしで生きる」現場であれば避けて通ることは出来ないからです。
 これらのことは、多くの場合、その都度言葉で語ってはきませんでした。「神の前で、神と共に、神なしで生きる」ことが、西宮公同教会と関連する働きのすべての日常の基本であるとしても、改めてそれ以上の言葉は必要としないとしたのは、「子どもたちの命と生活を守る」が「神の前で、神と共に、神なしで生きる」ことそのものだったからです。
 この西宮公同教会の働きを表す2つの表現は、いつでも誰にでも結びついたこととして理解できているかと言えば、幼稚園や教会学校の保護者の場合だったら、「子どもたちの命と生活を守る」は、ある程度理解は可能だとして、それがそのまま「神の前で、神と共に、神なしで生きる」とはなりにくいのです。少なくとも、選んで西宮公同教会、及び関連する働きに加わった人たちにとっては、この2つの表現は繰り返し自己理解を深める課題であるのはもちろんです。
 2018年5月から、西宮公同教会と関連する働きは暫定的に体制が変わることになりました。教会の代表が幼稚園の現場の代表でなくなったり、教会代表も暫定的には変わっています。そんな訳で、いくつかの事を整理するのがこれらの文章ということになります。しかし、西宮公同教会、及び関連する働きが「子どもたちの命と生活を守る」「神の前で、神と共に、神なしで生きる」ことは現場の体制がどうであれ何一つ変わることはありません。

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