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小さな手大きな手

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2018年08月04週
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 どのくらい前だったか、週刊誌のアンケートに答えた「死刑囚78人の肉筆」が掲載されていました。(注1)その部分16ページだけが残っています。「サリン事件、弁護士一家殺害」などで死刑が執行された、オウム真理教の13人のうち4人が、このアンケートに答えています。長くなりますが引用します。
 「本を読んだり、相撲や洋楽のラジオ番組を聴くのが楽しみです。週一回のラジオ視聴も楽しみです。妻や友人との面会や文通も、もちろん楽しみであり、喜びです。そして何より、毎日の修行(瞑想・プラナヤーマ等)をするのが楽しみであり、喜びです。一ヶ月半ぐらいに一回巡ってくる一番風呂も。(笑)一方、今のように死刑の執行が毎月行われたり、新聞等で、オウムの死刑囚がまだ執行されないなんていう不満めいた風潮を感じると悩みます。また、修行の成果が思うようにあがらない時も悩みます」(早川紀代秀)。
 「最近よく思い出すことを書きます。1989秋に最初に『坂本弁護士一家が行方不明』との旨の報道に触れたとき、私はオウムを疑いました。そして即オウムの水戸支部に行き、この件についてオウム水戸支部の責任者に尋ねたところ、その責任者はあきれた表情と怒った表情を交錯させながら厳しい口調でオウムとの関連を否定し、その場に居合わせたオウム出家信者、オウム在家信者も皆、激怒の様相で『こんな大事な時期(衆議院選挙直前)にそんな事をやれば選挙に負けるのは明らかで、これは国家権力による陰謀だ』ということを口々に叫んでいました』(土谷正実)。
 「世のため、人のためと願い、会社を辞め、全財産を布施して出家。そして59日間、真っ暗闇の中での24時間の修業を経ての様々な神秘体験の果てに、宗教の呪縛に取り憑かれてしまい、ある教義の妄念のもと犯してしまった殺人事件。妄信すれば迷うことなく大きな犯罪を冒すことは、オウムの実行犯を見て判るように、人とは思い込みや間違った信念で、いとも簡単に道を踏み外してしまうものです」(宮前一明)。
 「詩『獄中の月影』/澄みきった凍て付く夜空に皓皓と輝く寒月/獄中の小さな空のすきまにぽっかり昇る/淡い光の海の金波をくまなく広げるように/闇にしみ渡る姿なき月光の限りない温もりは/万物を何一つ見捨てず包み込んでいる/房内の壁にほのかに浮かぶ月影の我が身/救われようのない大罪がくっきり映し出される。
 かけがえのない家族や夫婦や親子や友人と/愛し合い支え合い励まし合って/生きてこられた人生とこれからの人生を/私はことごとく奪ってしまったのです/何という恐ろしくとりかえしのつかないことを/しかも救済すると信じてやってしまったのだと/たとえようのない苦悶の波におそわれます。
 絶望の中でどうしようもなく死を思うほど/心臓の鼓動がドッキンドッキンと高まり/いのちに生きると呼び止められているようで/どうすればいいのだと天を仰ぐばかりです/犯した大罪をどれほど苦しみもだえても/苦しんでいるものまねにすぎないと思い知らされ/ただただとりとめなく悲しみがあふれます。
 獄舎にピーンと張り詰める強制される静けさ/抑え切れない罪の呻きが救われぬまま渦まき/罪人はもがけばもがくほど罪の海に沈んでいく/誰もが生まれた時は祝福されていたであろうに/巡り合わせと選択の中で罪を犯していく/人間の弱さと愚かさがせつなくてたまらない/罪人の一人一人の悲しげな目はみんな同じです。
 夕影が空と大地と西方浄土を染めはじめると/獄中のすきまからもれなく光が差し込み/差別なく花も机も我が身も照らし出す/ああどれほど罪の闇の中で彷徨い続けようと/はてなき光はきっといつも届けられている/救いなき姿のままでこそ摂取する無限の光よ/償いようのない罪を償う道を照らして下さい。(井上嘉浩)。
 「獄舎にピーンと張り詰めた強制された静けさ」の日常であるにせよ、その時の4人には4人なりの日常はあり、無差別にいきなり日常を奪われた人たちの日常は、1995年のその時に終わりました。そうして奪ってしまった事実はどんな意味でもつぐなうことができないのが、「サリン、弁護士一家殺害など」のオウム真理教の事件であり、掲載された事件の被害者です。その事件の死刑囚13人の死刑執行が7月6日7人、7月26日6人と相次ぎました。この死刑執行について新聞は「異例ずくめの権力行使」と書きました。「(死刑)執行後に法務省が公表するのは氏名と犯罪内容、執行場所のみで、選定理由すら明かされない。その姿勢はひと月で計13人という前例のない『大量執行』でも徹底された」「執行を回避する傾向にあった再審請求中の死刑囚への対応も変化している。法務省は昨年、複数回目の再審請求中だった3人に執行した」「2度の記者会見でこうした点を聞かれた上川陽子法相は『執行を待つ者の心情を害する恐れがある』(6日)などとして説明を控えた。だが、制度運用のあり方を含めた議論を探るためにも、情報の公開を再考すべきではないか」「死刑制度は世論の高い支持があるが、今回の連続執行は国家による究極の権力行使であることを改めて印象づけた」(7月27日、毎日新聞「解説」)、
 別に、「精神世界/無関心な私たち/オウム事件、言葉にする努力を放棄」(高村薫、7月10日、朝日新聞)、「断言・断言・断言/身の回りに今も/『正しさ』の支配別の『麻原』生む」(高橋源一郎、7月14日、朝日新聞)、「オウム13人死刑執行/脳の中の重いおもり/事件・終わっていない」(村上春樹、7月29日、朝日新聞)、などに目を通すことになりました。村上春樹は、いくつもの留保をしながら、13人の死刑を相次いで執行したことを「13人の集団処刑(とあえて呼びたい)が正しい決断であったかどうか、白か黒かをここで断ずることはできそうにない」と書いています。書かれている「集団処刑」にせよ、「今回の連続執行は国家による究極の権力行使である」にせよ、少なからず見つめてみたいのは死刑執行の「説明が控え」られ「情報の公開」がほぼなされない事実及びその意味です。
 死刑の執行は、オウム真理教の死刑囚たちが「手記」で語る、それが起こった社会とそこで生きた当事者たち、事件が裁かれて「死刑が確定」した当事者と結果的にそれを支持した社会(あるいはその時の国家・権力構造)、そして今回の集団処刑としての死刑執行となるのですが、それらは、連続する何一つ疑いの余地が無い出来事という訳ではありません。
 「13人全員の死刑執行」を「国家による究極の権力行使」「集団処刑(とあえて呼びたい)」と書かざるを得なかったりするのは、「何一つ疑いの余地が無い」ではなく、少なからず違和感を持たざるを得ないのは、「執行を命じた/上川法相」即ち国家・権力が、その事実の「説明を控える」ないし「情報の公開」をあえてないし決してしないからであるように思えます。それはたぶん「説明ができない」「情報の公開ができない」からなのです。「サリン事件、弁護士一家殺害など」のオウム真理教の事件の13人の死刑は確定していました。裁判所の決定です。裁判所は、いわゆる犯罪の犯罪者の生きた社会的背景を一定程度考慮しますが、多くは犯罪そのものを裁きます。その裁判は国家による権力の行使ですが、決定を行使するのも国家権力です。決定と行使には少なからず違いがあります。決定は、公開の法廷で文言を読みあげますが、行使、中でも死刑は死刑が確定した人間の命を絶つことの実行前掲のような手続きで執行されます。その実行は、国家権力の特定する誰かにゆだねられることになります。ゆだねられた特定の誰か、個人には、そのことの行使を仕事である以上に納得している訳ではないはずです。たぶん「仕事」としてそれを実行することになります。それが、牛や豚を屠殺するのと事情が違うのは、もちろん相手が自分と同じ人間であることです。牛や豚は屠殺して食べます。「すまんのう、食べさせてもらうよ」ぐらいの挨拶をして屠殺するのだと思います。相手が自分と同じ人間で、特別の利害もなかったりする場合、「すまんのう」では済ませにくいはずです。「死刑囚78人の肉筆」を特集した週刊誌は、死刑囚が絞首される時の状況、元死刑執行係の「手記」も掲載しています。「神奈川県下で主婦2人を殺害したとして、強盗殺人罪に問われた庄子幸一死刑囚(注2)は「〈舌骨が折れ眼球が飛び出し、口中、耳鼻孔より止めどなく血が流れ、一本のロープに吊るされて死が確定するまでくるくると身を回転させ、けいれんを続け、絶命する時間をいつも想像している〉と記述」。元死刑執行係が語ったとされる執行の状況は以下のようになっています。「執行場所の中は畳半畳分の床が開閉式で、死刑囚はそこに立つことになります。執行ボタンを押す立会人は5人。そのうちの一つが落下装置と繋がっています。刑場は看守役から見えない位置にあって、誰が押したのかもわかりません」「一瞬だから痛みは感じませんよ。首を絞めて死ぬんじゃない。その為にロープの長さは調整します。死刑囚の身長と体重を測って、脊髄まで一気に切れる長さを準備しておく」「大事なのは、首にロープをかけるときに結び目を横に持ってくること。すると落下と同時に自然と立会人に向かって頭を下げているような格好になる」「一番つらいのは、ドンと落ちた死刑囚を地下で受けとめる役です」「絶命するまでには、10~12分ぐらいかかります」。庄子幸一死刑囚の記述する(想像している?)死刑執行の状況と、元死刑執行係が語る状況とに、実際どの程度違いがあるのか解りませんが、死刑執行係にとって実際に死刑を執行する時の相手は、たとえば裁判所、裁判官が「情状酌量の余地無し」の「極悪非道」の人間ではありません。ましてや、その人間に対する憎悪でボタンを押す訳でもありません。「国家による究極の権力行使」の、末端の担い手であるに過ぎません。有無を言わせず死刑という暴力を行使するのは国家権力なのです。が、それを実行するのは死刑執行「係」です。それが今回のように集団処刑になったりもします。世論の高い支持の死刑制度の「世論」は、世論というあいまいなものの一人であることを隠れ蓑に、更に国家権力は死刑の執行を「執行係」という「係」を隠れ蓑に、人間が人間を意識的に殺す死刑という暴力を行使するのが今この国で存在し、かつ続行されている「死刑制度」ということになります。
たぶん、「死刑」を制度として容認する場合に避けることのできない人間としての虚偽を、制度を廃止した人々は自覚せざるを得なかったのだと考えられます。

注1 週刊ポスト、2013年2月15、22日号
注2 庄子幸一死刑囚、2018年7月26日現在東京拘置所に収監されている

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