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小さな手大きな手

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2018年10月02週
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 香住教会の小林拓哉さんが、昨年9月に亡くなってから一年余り、10月8日に「小林拓哉牧師昇天一年/祈りと記念の集い」が開かれることになり、西宮公同教会からは5人が出席することになりました。片道およそ5時間の道のりですが、車の中はにぎやかで話題も広がり、舞鶴自動車道の春日で、左折し北近畿自動車道に入るはずなのに、運転手を含め誰も気が付かないで、舞鶴西まで行ってしまいました。(ナビは入れていたが、音声が小さくてほとんど聞こえなかったりもした)。結果、到着は式の始まる10分前くらいになってしまいました。式が終わって、亡くなった小林拓哉さんと親しかったりした人たちの挨拶で、地区長の藤本真さん(浜坂教会、この地区は集会の開かれた豊岡教会、但馬日高教会、香住教会、竹野教会、城崎教会で構成されている)の挨拶を、印象深く聞きました。「小林拓哉さんとは、隣の教会でしたが親しい交わりというものもありませんでしたし、個人的にも特に印象はありません。地区長なのにこんなあいさつで申し訳ありません。まあ、地区長と言っても、地区長の小林拓哉さんが亡くなられ、人もいないということでやらせてもらっています。ただ、何人かのいつか天国でお会いするという挨拶をお聞きして、小林拓哉さんは間違いなく天国へ行くでしょうが、私は地獄へ行きますからお会いできません」とまあ、こんな具合でした。正直というか地区長としては見も蓋もなしなのですが、終わってから「なかなかいい挨拶だった。僕はそのどっちでもない、間だけどな」と声をかけておきました。
 だいたいこうした集まり、告別式の場合でも、キリスト教では亡くなった人のことを「先に天国に召される」そして、「残された私たちも、いずれは天国でお会いする」と言うことになっています。行ってみれば、あたりさわりのない常套句なのです。ですが、ちょっと考えてみると、これって変なのです。誰かが死んでしまって天国へ行ったり、自分も後から天国へ行くなどということは、誰にも言えはしないし、誰も決めることはできないはずだからです。たとえば、天国へ行くという場合の資格や条件はそもそもあるのか、その資格・条件を決めたり見極めたりするのはいったい誰なのか、その「誰か」は誰が決めるのか、何しろ天国のことですから、本来は誰にも決められないはずです。同じように、その人が天国に行く資格・条件を満たしているかどうか、第三者には判断できないはずなのは、その人のすべてを知っている訳ではないからです。小林拓哉さんは、たくさんの人たちの挨拶を聞いていても、そうでしたが、「いい人」でした。小林拓哉さんは、早くにお父さんを亡くしておられます。育ててこられたお母さんの挨拶はとても悲しいものでした。子どもに先立たれたこと、なす術がなかったことは、どんなお母さんであっても、悲しんでも悲しみ切れないはずで、そんな気持ちを押さえながらの挨拶でしたが、尚のこと気持ちがあふれ伝わってくる挨拶の言葉に聞こえました。 
 いわゆるキリスト教では、亡くなった人のことで告別式、記念の集まりがあったりする時「先に天国に召される」「残された私たちも、いずれは天国でお会いする」として、そのことは「完結」することになっています。その完結を更に「完結」されるのが、その時の祈りで、内容も「先に天国に召される・・・」でしめくくられることになっています。
 石牟礼道子の対談、講演を集めた一冊が「蘇生した魂をのせて」(2013年、河出書房新社)です。帯には「水俣からの言魂/破壊し尽くされた自然や人間の悲劇と、その闇の奥底に立ちあがる新しき叡智、受難の時代に響く、珠玉の対談・講演集」とありますから、現実に起こっていること、たとえば誰かの死を受けて、異口同音に「先に天国に召される」「残された私たちも、いずれは天国でお会いする」などと言ったりはしない精神がそこにはあるように思える、そんな対談・講演集です。たとえば、31歳で亡くなった若者であったとしても、決して超えることができない深淵があるはずのことを「先に天国に召される」などとしてはいけないかも知れないのですから。
 「蘇生した魂をのせて」には、石牟礼道子からの、いわゆる既成宗教への問いが語られています。「しかし、平均的宗教というのは水俣のこれほどの絶対的受難に対しては無力と言いますか、あまり力を持たないようでございます」(講演「日月の舟」、1996年4月、水俣病40年記念講演)。この少し前に、キリスト教、仏教のことが書かれていますから、既成宗教はこれら宗教のことであるのは明らかで、これら宗教は「水俣のこれほどの絶対受難」に対しては「無力と言いますか」「あまり力を持たない」ということになります。31歳の若者が亡くなった時「先に天国に召される」「残された私たちも、いずれは天国でお会いする」などと口にしている限り、「無力と言いますか」「あまり力を持たない」は当たっているかも知れません。たとえば、31歳の若者が亡くなったという事実が、何を突きつけているのか、そこで何がえぐられているのが、場合によっては「先に天国に召され」「残された私たちも、いずれは天国でお会いする」などの言葉や理解を「戯言」として退ける死であったのかも知れないからです。もし、それとして受け止めるとすれば、いわゆるキリスト教は、石牟礼道子から「平均的な宗教」として切り捨てられることはなかったかも知れません。
 で、言われているキリスト教「平均的な宗教」なのですが、果たしておしなべてその程度で完結してしまう宗教なのだろうか。たとえば、こんなやりとりが平均的な宗教・キリスト教の聖書には書かれていたりします。「会堂や官憲や権力に連れて行かれることがあっても、どのように、また何を弁明し、何を言おうかと心配するな。その時になって、聖霊があなた方に何を語るべきかを教えてくれるであろうから」(ルカによる福音書12章11,12節)。これに先だつ12章1節以下でも、「会堂や官憲や権力」と言われているものに、ただ従属しているのではなく生きているらしい様子、しかし、それが圧倒的な力で迫っていることも示されています。「…パリサイ派のパン種つまり彼らの偽善に、みずから注意せよ」「私の友人であるあなた方に言う、身を殺すことはするが、その後ではそれ以上何もできないような者どもを恐れるな…」。こうしたことが書かれている状況から、この人(たち)が「絶対的受難」にさらされていることが少なからず想像できるはずです。それに立ち向かうにあたっては「どのように、また何を弁明し、何を言おうかと心配するな。その時になって、聖霊があなた方に何を語るべきかを教えてくれるだろう」と、指示されていますが、たぶんこれは、すべてを引き受ける覚悟が、その覚悟に置いて相手を凌駕するであろうことが示唆されているようにも読めます。「会堂や官憲や権力に連れて行かれる」それが絶対的受難であったとしても、そのすべてを引き受ける覚悟とそのありようは、「平均的な宗教」として完結することを了解はしないはずです。「あなた方に言う。人間たちの前で私のことを告白する者は皆、人の子もまた神の天使たちの前でその者のことを告白するであろう」(12章8節)。ここでは、具体的な状況は語られていませんから、これ以上のことは言えませんが、そうだとしても「絶対的な受難」は想定できるし、それを「平均的な宗教」で完結させるということをしていないのも明らかです。言ってみれば、「先に天国へ召される」というよりは、地獄へ落ちること、しかしそこからの叫び声をひびかせること、そしてそれを奪うことは誰にもできないことが示唆されているのだと読めるように思えます。
 地区長の藤本真さんが「私は地獄へ行きます」は、多くの人たちの「先に天国に召される」「残された私たちも、いずれは天国でお会いする」が少なからず安易な完結であって、結果的には「平均的な宗教」を演じてしまっていることを、少なからずえぐっていたと言えます。ひるがえって、こんなことを書いている人は、そんなにいいかげんに「間だけどな」と言った訳ではありません。少なくとも、宗教の世界に足を突っ込んできて、「平均的な宗教」を演じたりはしなかったように思えます。
 はっきりしているのは「先に天国に召される」「残された私たちも、いずれは天国でお会いする」事を「完結」させたりはしませんでした。はっきりしているのは「地獄」ないし「間だけど」がふさわしいはずで、つい先日も罪のない生きもの、ネズミを殺してしまいましたから、「地獄行き」です。というのは、4,5日前から、アートガレーヂの台所あたりに一匹(だと思う)ネズミが出没、さっと出ては隠れるをしていました。特に被害があった訳ではありません。気が付いた時はちょっと気になる、まあ、それらしい気配は感じていたように思います。で、ホームセンターに問い合わせてもらったところ、「粘着シート」とか、昔ながらのネズミ捕り籠も存在しているとのことでしたので、別の要件もあったので、両方とも購入してしまいました。粘着シートを設置した次の日、今朝、ネズミは粘着シートにしっぽの部分で捕まってしまったのです。で、しっぽ以外粘着シートの外のネズミを、米袋に入れ、こっそりゴミに出してしまいました。「窮鼠、猫をかむ」のたとえ通り、激しく抵抗しましたが、助けてもらえませんでした。ですから、これを書いている人は間違いなく地獄行きです。
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