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小さな手大きな手

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2018年11月03週
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(前週よりの続き)
 2016年6月、米海兵隊軍属による女性暴行殺害に抗議する集会で、翁長雄志知事は「先日、被害者が遺棄された現場に花を手向け、手を合わせてきた。心の底から『あなたを守ってあげることができなくてごめんなさい』という言葉が出てきた。21年前のあの痛ましい事件を受けての県民大会で2度とこのような事故を繰り返さないと誓いながら、政治の仕組みを変えることができなかったことは政治家として、知事として痛恨の極みであり、大変申し訳なく思っている」そして、「政府は県民の怒りが限界に達しつつあること、これ以上の基地負担と県民の犠牲は許されないことを理解すべきだ。私は県民の生命と財産、尊厳と人権、そして将来の子や孫の安心や安全を守るべき知事としてこのような事件が2度と起きないよう県民の先頭に立って、日米地位協定の抜本的な見直し、海兵隊の撤退・削減を含む基地の整理縮小、辺野古基地建設阻止に取り組んでいく不退転の決意を表明する」とあいさつします。そしてあいさつは「ぐすーよー、まきてぇーないびらんどー(皆さん、負けてはいけませんよ)。わったーうちなーんちゅぬ、くゎんまが、まむてぃいちゃびら(私たち県民の子や孫たちを守っていきましょう)。ちばらなやーさい(頑張っていきましょう)。」で閉じられました。 
 翁長雄志知事が、前知事が承認し、それを取り消した、辺野古違法確認訴訟は、高裁で敗訴しますが、その時、最高裁に上告するにあたって(後に最高裁でも敗訴)翁長雄志知事は以下のように述べています。「埋立承認取り消しは、公有水面埋立法が求める要件を丁寧に検証した上で行ったものであり、国土交通省により是正の指示を受けるいわれは全くない。これまでの歴史的な状況を含めて、なぜ沖縄県だけが他の都道府県と異なる形で物事が処理されるのか、地方自治体の自由・平等・人権・民主主義・民意が一顧だにされないということが、今日、他の都道府県であり得るのか。大変疑問だ」(2016年9月)。
 2017年、辺野古訴訟で沖縄県が敗訴した結果、辺野古での海上工事が再開されます。残された、承認撤回について、2017年3月、辺野古現地での抗議集会で言及します。「まじゅん、さらにちばらなやーさい。なまからどぅ やいびんどー(一緒に、さらに頑張りましょう。これからですよ)。今の新辺野古基地の状況を見ると、米軍占領下を思い出す。…今、国の辺野古埋め立てのやり方は、あの占領下の銃剣とブルドーザーとまったく同じ手法で、あの美しい大浦湾を埋めようとしていると強く感じる」そして「…あらゆる手法をもって、(埋め立て承認の)撤回を、力強く、必ずやる」と、「撤回」を明言します。その「撤回」は先のばしされ、埋め立て工事は第一段階としての護岸の一部が完成、2018年8月に土砂の投入が始まろうとする2018年7月27日に翁長雄志知事は埋め立て承認の「撤回」の手続きを表明、その10日後の8月8日亡くなります。
 こうして、翁長雄志前沖縄県知事の発言、言葉を「魂の政治家、翁長雄志の発言録」でたどってみる時、その一つ一つが、「人間の言葉」であることに気づかされます。「人間の言葉」なのです。人間の言葉は、「人間が語る限り、すべて人間の言葉である」という以外の特別の定義がある訳ではありません。2015年4月、菅官房長官と翁長雄志沖縄県知事との会話の冒頭の官房長官の発言も「人間の言葉」です。この時、翁長雄志知事を選んだ沖縄の人たちが、そのことでの何よりの理由は、「辺野古新基地建設反対」であり、沖縄にある米軍基地の「縮小、撤去」でした。それは、沖縄の島で生きてきた人たちの切実な願いの結実した「人間の言葉」でした。人間の言葉が力を持つのは、それを人間の言葉として聞いて応答する時です。菅官房長官は、人間の言葉で応答します。「一つひとつの負担軽減、そして沖縄の皆さんと連携しながら経済政策を進めていって、信頼感を取り戻させていただいて、しっかりと取り組んでまいりたいと思うので、どうぞよろしくお願いしたい」。辺野古新米軍基地建設の「可・否」を争って、沖縄の人たちの多数が選んだのは、それを「否」とする人、翁長雄志さんです。それを、一地方自治体に過ぎない沖縄県が「人間の言葉」として国に突きつけました。それに対して、国は「信頼感を取り戻させていただいて、しっかりと取り組んでまいりたいと思うので、どうぞよろしくお願いします」と応じます。沖縄の人たちの「人間の言葉」は何一つ届かないのです。あるいは、それに応答する「人間の言葉」、人間にはもう一つ全く別の「人間の言葉」のあり得ることを示唆しています。あるいは、この時の菅官房長官に代表される「安倍政権」は、例えば翁長雄志沖縄県知事の沖縄県が理解する「人間の言葉」とは、もう一つ別の人間の言葉の世界を生きているらしいことです。
 翁長雄志知事の沖縄の人たちが、辺野古新米軍基地建設反対と言う時、その「人間の言葉」には、一つには73年半前の沖縄の人たちを巻き込んで闘われた戦争と、沖縄の人たちはもちろん世界の人たちの命の海のことが、必ず念頭にあります。言葉を持って生きる人間が、それを言葉にすることさえ難しい戦争の惨状を見て生きた体験が、必ず戦争の基地と重なって見えざるを得ない、それが沖縄の米軍基地の一つ、普天間飛行場であったりします。そこでは、毎日、昼夜を問わず、戦争の道具、兵器によって訓練が繰り返されています。戦争の為の、もう一つの更に格段の機能を備えた基地が辺野古に建設されるのです。そして、建設のために埋め立てられるのが、沖縄の人たちはもちろん世界中の人たちの命の海です。その命の海には、人間の命に直結する、おびただしい命の営みが、太古の時代から繰り返され、そのものたちの命そのもの、そして人間たちの命をはぐくんできました。沖縄の人たちは、その先祖たちの時代から、海辺に立ち、海にもぐり、海の生きものたちの命と一体になって自分たちの命を感じ見つめてきました。その人間の命の海を軽んじてはいけないというのが「人間の言葉」そのものだったし、それは今も変わりません。たとえ、始まってしまっている海の埋め立てであったとしても、「人間の言葉」で沖縄の人たちは、政府の強権に立ち向かい続けます。それは「人間の言葉」で生きる人たちだからです。
 2018年9月30日、翁長雄志沖縄県知事が亡くなった後の選挙で、辺野古新米軍基地建設を「決して許さない」とする、玉城デニー候補が勝利します。沖縄の人たちの「人間の言葉」の勝利でした。 
 2018年10月24日、第197回国会で、アベ総理大臣はその所信表明で、少しだけ沖縄について言及します。と言うか、いくつかの自然災害被災地に言及する以外、都道府県で言及するのは沖縄県だけです。「≪強固な日米同盟≫、三月、一部返還が実現した沖縄の牧港補給地では、県内最悪と言われる渋滞の解消に向けて、道路の拡張を進めます。今後も、抑止力を維持しながら、沖縄の皆さんの心に寄り添い、安倍内閣は、基地負担の軽減、一つひとつ、結果を出してまいります」。沖縄の人たちは、9月30日の知事選で、改めて一つの結果を出しました。玉城デニー候補を選ぶことです。「人間の言葉」で生きる沖縄の人たちの一つの結果です。もう一つの「人間の言葉」は、「沖縄の皆さんの心に寄り添う」と言いながら、沖縄の人たちの「人間の言葉」に一切耳を傾けているようには聞こえません。もしそうだとすれば、この人(たち)は、砂浜に立って波の音に耳を傾けたり、潮の香りを目いっぱい吸い込んだりする、そんな体験のもう一つ別の「人間の言葉」があることを想像したことはないのだと思えます。今、たまたま「運命 文在寅自伝」(岩波書店)を読んでいます。現在の韓国の大統領、文在寅の自伝で、韓国での出版は2011年です。この自伝の日本語訳序文(2018年10月、大統領としての在任している現在)に、「そのような人たち(私と一緒に『運命』をつくってきた大勢の人々)のうちの一人が盧武鉉元大統領です。盧大統領と私は、とても小さい泉で出会い、険しく遥かな水路を流れてきました。深い泉から流れ出る水は涸れることなく、川となり大河となって海へ流れていきます。盧大統領にとって、海とは『カラム サタン ヤサン(人が暮らす世の中)』でした。彼は世を去るにあたり、海へ向かう深い泉を一つ残していきました。その泉があったからこそ、この『運命』という本も世に出ることができました」と書いています。以下は、6年後の2017年5月の大統領就任の宣誓からの一節です。「特権と反則のない世の中を作ります。常識どおりにする人間が、きちんと利益を得られる世の中を作ります。隣人の痛みを無視することはありません。疎外された国民がないように、心を砕いていつも目を配りたいと思います」。この場合の「人間の言葉」からは、もう一つの別の人間の言葉はあり得ないように読めます。人間の言葉が生きて共有・共感しあうものとして受け止められ信じられているからです。

 … 私達は中学校や大学で「論語」を何度か読まされて来た。しかし、頃日私が読んでいる論語は、道徳の書では決してない、むしろ人の切ない心に訴えて来る文学作品としてである。しかも孔子の悲しみが張り切った弦のように張り詰めている、言々皆一切に遺言、或は断言の響きを持っている。自らの漂泊の運命を賭けた言葉であるがゆえに、それらの言葉はみな断然たる預言にまで高まっている。「道不行、乗桴浮於海」そして「従我者其由也予」とは云え。孔子は決して「従我者」を望んでいない、それを望むことも強制することも出来ないにも拘ず煌々として光る一筋の道が。ゆえもなくして見えて仕方がない、そういう道なればこそ殉ずることが出来るのである。又、自ら殉ぜざる限りその道は決して生きず、決定的な表現を得ることも出来ないのである。
(1945年「上海・南京」堀田善衛より)

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