マタイによる福音書25章35節の「あなたがたは、わたしが空腹であったときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し」は、田川建三訳・註では「すなわち、私は飢えたが、あなた達は私に食べさせてくれた。私は渇いていたが、あなた達は私に飲ませてくれた。わたしはよそ者であったが、あなた達は私を迎え入れ」となっています。註では「よそ者」は「その町の市民権を持つもの(ないしは公に居住を認められたもの)以外の者」だろうとしています。
今、その「よそ者」のことが、法律の改正なども含め、国(国会)などで、大きな話題、議論になっています。改正されようとしている法律の条文、法案などに逐一あたっている訳ではありませんから、正確なことは言えませんが、少なからず気になりますから、手元にある数少ない資料で、少しだけ考えてみます。マタイ福音書が「よそ者」を「迎え入れる」と言う時、たとえば、そこに居住することになった「よそ者」を、同じ居住者として生活上の権利などを含め迎え入れることを意味していました。話題、議論になっている法律案は、同じ居住者として生活上の権利を含めいわば「移民として」迎え入れることは全く考えられていません。「外国人労働者の受け入れを拡大する入管法改正案の国会審議で、安倍晋三首相は『移民政策を取る考えはない』と強調している。人口減少に直面して『即戦力』外国人を求める一方、地域や社会の一員として受け入れる『移民』を強く否定する」「『一定数の外国人及びその家族を、期限を設けることなく受け入れる政策を取ることは考えていない』。13日の衆院本会議。首相は外国人の受け入れ拡大が移民につながることを否定した」(11月18日、毎日新聞)。外国人の受け入れ拡大が移民につながることを否定したのは、首相・アベ政治の「本当の本音」です。しかし、もう一つの「本音」は、中でも「全国の中小・小規模事業者の皆さんが、深刻な人手不足に直面している」現実の解決策としての外国人労働者の受け入れを迫られていることに対応せざるを得ないことです。(今国会10月24日の首相所信表明演説)。「一定の専門性・技能を有し、即戦力となる外国人材を受け入れる。入国管理法を改正し、就労を目的とした新しい在留資格を設けます。出入国在留管理庁を新たに設置し、受入企業の監督に万全を期します。社会の一員として、その生活環境の維持に取り組んでまいります。更に日本人と同等の報酬をしっかりと確保いたします」(首相所信)。「社会の一員として」「その生活環境」「同等の報酬」となれば、いわゆる日本人そのものです。しかし、選挙の権利などにはそれが及びませんから「本当の本音」では、かなり限定的な社会の一員であり、生活についても本来生活が意味する多くのことが抜け落ちているように思えます。生活と言うのは、受け身に、与えられるものではなく、その人に固有の生きる権利であって、外国人労働者が隣で生活する日本人と同等に、自分の生活上の権利を主張できたりする時に初めて生活と言えるはずです。しかし、所信表明の短い文章からそれを読み取ることは困難で、述べられているのは「与える側」からの極めて限定された生活であり権利になります。外国人労働者として、隣に住むこともあり得るその人は、日本国家及び隣に住む日本人によって「監督に万全を期され」て生活が「確保される」、すべてにおいて受動的に生きることが強いられる、やはり「外国人」労働者なのです。マタイによる福音書が、「よそ者」を「迎え入れる」という時、この壁は乗り越えられている、あるいは取り払われていると考えるべきです。それは、その社会の一員として無条件で受け入れることも意味するはずです。
ねらっているのは、「即戦力」としての「労働力」です。この国で、社会の一員として生きる日本人の場合、「労働者」と言っても、それはそれは多様であり、その労働のありように、誰かが口出ししたりもできません。しかし、「外国人労働者」は「即戦力」です。「即戦力」の「労働者」であって初めてこの国で存在理由が認められます。「家族帯同や長期在留」も、認められるのは一部だけです。たぶん、「問題を起こさない」外国人労働者ということになります。これって、限りなく、奴隷というものに近くなりませんか。
いずれにしても欲しいのは、労働力になる外国人労働者です。「改正案(入管法)は在留資格を『特定技能1号』(通算5年まで)と『2号』(在留期間更新可)を創設し、『一定の専門性・技能』を持つ外国人を受け入れるもの。介護など14業種で2019年度に最大4万7550人を受け入れる見通しだ」「一部には家族帯同や長期在留を認めるなど従来の技能実施制度とは違うため、専門家からは『移民政策に近づいた』との指摘も出ている」(前同、毎日新聞)。入管法改正まで実施する、従来と違うことにならざるを得ないのは、増え続けるし、増やすよりない外国人労働者の受け入れは、今までのように労働者個人の問題に止まらず、その外国人の国との関係で位置づけせざるを得ない状況が生まれている為、しかし決して移民ではない存在とすることの定義が求められているからです。ですから、国家間、国際間でも大きな問題とならざるを得なくなっている、外国人労働者の問題を所信表明でも「ベトナム人の青年が、日本人と同じ給料をもらいながら、一緒に働いていた」「彼にとっても、大きな誇りとなっている」「これは、私たちにとっても誇りであります。世界から尊敬される日本、世界中から優秀な人材が集まる日本を創り上げてまいります」(前同、毎日新聞)。「本音」は別の所にあります。「法務省の入管法改正案の説明資料には『深刻な人手不足に対応するため、即戦力となる外国人材を受け入れる』との一文がある」「改正案は、人手不足が深刻化し、単純労働に近い職場にも及んだ結果だ。山下貴司法務相は『現行の受入制度を拡充するものだ』と在留制度の大きな変更はないとの立場だが、『役に立つ人物』を意味する人材という言葉には、使用者目的がちらつく」(前同、毎日新聞)。
首相の所信表明、入管法改正などが念頭に置いているのは、あくまでも即戦力としての外国人労働者であり労働力であって、時には生活を共有し共有し合う「隣人」とは理解されていないはずです。
その外国人労働者たちが加入する労働組合が結成されました。「中華料理店『日高屋』を首都圏で約400点展開する『ハイディ日高』(本社、さいたま市)で、外国人従業員が約3000人加入する企業内組合が結成されたことがわかった。組合員の約3分の1を占める」(11月21日、朝日新聞)。たぶん、今まで、この国の人たちが外国人と向かい合ってきた時、有能で従順でおとなしい場合には比較的寛容でした。しかし、その外国人が目立ったり、たとえば労働者として当然の権利を主張し始めた時、寛容の仮面をいとも容易く外してきました。陰に陽に時には大音量の拡声器で誹謗中傷してきました。容赦のない「ヘイトスピーチ」です。恐らく、たぶん、こうして組合結成に加わった外国人労働者が、誹謗中傷されることになるのは、時間の問題であるように思えてなりません。
マタイによる福音書が、一方で「よそ者」と言いながら、それを「迎え入れる」と言っているのは、古代社会の持っていたよそ者であることを理由に、排除したりすることの無い社会の様子を伝えているように思えます。
先日、「幼児祝福式」の案内に、「僕に本当のことを教えてください」などを、15項目ほど書きました。
僕に本当のことを教えて下さい
僕に本当の居場所を下さい
僕に本当の時間を下さい
僕に本当の自由を下さい
僕に本当の学校を下さい
僕に本当の先生を下さい
僕に本当のお母さんを下さい
僕に本当のお父さんを下さい
僕に本当のおにぎりを下さい
僕に本当の水を下さい
僕に本当の空を下さい
僕に本当の海を下さい
僕に本当の山を下さい
僕に本当の言葉を下さい
僕に本当のことを教えて下さい
誰か本当の人が
僕に本当のことを教えて下さい
この度、拡大されることになる外国人労働者が、首相の所信表明の「私たちにとっても誇りであります。世界から尊敬される日本」である為には、その存在が、隣人として、隣人であることにおいて誇りであり、尊敬される為には、その人たちが日本において、本当の居場所、本当の時間、本当の自由を約束される存在であることは不可欠です。もし、そうであるとすれば、他のすべてにおいて、たとえば沖縄の人たちも、本当の居場所、本当の時間、本当の自由を約束されてしかるべきです。たとえば、先の知事選挙において沖縄の人たちが選んだ選択、「辺野古に新米軍基地は建設させない」が尊重されるべきであるのはもちろんです。新基地建設はあり得ないのです。沖縄の人たちの多数がそれを望み、それを公約する知事が誕生したのですから。
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