「脳と仮想」(茂木健一郎、新潮社)という本を、2ヶ月余り持ち歩いてやっと読み終えました。“仮想”は、今まで読んだり考えたりしてきたことからだと、“物語”に近いかなと思っています。その仮想というものをしてしまうのが、人の脳ミソであってみれば、仮想は物語とそんなに違わないかも知れません。気になっていて、なかなか読み進めなかったのは、途中からワクワクするような何かが感じられなくなったことと、忙しかったことです。
その忙しさの中の一つに、阪神タイガースの藤本選手と能見投手と遊ぶというのがありました。その遊びの“司会”と“企画”もやってしまえる、という役割が回ってきました。言ってみれば、藤本選手と能見投手で、自由に遊んでいいということです。とりあえずは活躍している野球選手が、シーズンオフにサイン会をしたり、チャリティーのオークションに顔を出したりというのはよくあります。身近に選手が見られるということで、ファンは大喜びします。たとえば普通の生活者にとって“夢のまた夢”のような給料で働いている野球選手(藤本選手5000万円?、能見投手3000万円?)を、そんな程度で喜ぶのはもったいないように思います。給料はともかく“夢”が見させてほしくって、いろいろ頭をひねりました。で、子どもたちの目の前で“全力でバットを100回振る”“全力で100球投げる”を提案したりしましたが、場所の都合などで実現しませんでした。結果的には“夢”の一部が実現するぐらいの企画になりました。
この場合の夢なのですが、仮想と遠くはないようにも思えます。その仮想の定義。「・・・ある複数の作用の経路を通って立ち現れるものが一致するからこその『現実』であるとすれば、そのような一致が見られずに、浮遊しているものが私たち人間にとっての『仮想』である」(前掲書)。と定義される仮想は、“現実から浮遊している”よう言われるのですが、いわゆる非現実という訳ではありません。「・・・現実のように整合性という重いくびきを課される」ことはありませんが「・・・脳の中の一千億の細胞の関係性から生じる」、その意味では間違いなくゲンジツではあるのです。そして、「・・・有限の現実世界と、無限の仮想世界の両者を生きることが人間の運命」であり「・・・私たちは、様々な仮想に導かれてこの現実の世界を生き、やがて死んで行く」(前掲書)などのことが書かれています。
で、昨年末に発行されすぐに手元に届いた「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」(浜田寿美男、岩波書店)を大急ぎで読んで思ったこと。たとえば、おもしろかったのは“ノボルとヨーヨー”のことについて書かれた部分です。ノボルは、ある時「・・・ヨーヨーを買いたい」と母親にせがみますが、開拓部落の生活費を生きる家族にとってそれはかなわない願いでした。ノボルはヨーヨーを自分で作ってしまう、すごい子どもですが、それがノボルにとっての“リアリティ”であったので実現してしまいました。お母さんの大人のリアリティは、「・・・カバン、いろんな本、すずり、筆、鉛筆、ナイフ、それから石盤石筆、帳面・・・」であったりします。“おとなたちの時間”から見た、明日に備えて今を生きる為の道具たちです。でも、ノボルにとって今を生きる生活のリアリティからヨーヨーを抜き去ることはできませんでした。そうして遊び道具にまで世界が広がるのが、子どものリアリティなのです。子どもは、子どものリアリティを生き切ることで、一歩一歩大人に近づいていきます。子どもに向かい合う大人に求められるのは、一つ一つ子どものリアリティと付き合うことです。「・・・かつて子どもたちは家庭や地球で、おとなの一人前までとはいかなくとも、子どもとしての一人前を発揮して、それなりの生活者として、親兄弟と生活を共有し生活を支えていた」。むき出しにではなく「・・・共有する『何』か」を持って向かいあっていたのです。その「・・・共有すべき『何』かが見えにくく」なったとしても、子どもたちが生きて、生き延びて行く為には、このことは不可欠です。これらのことが見えにくくなった時、その先に起こり得ることが、今子どもたちをめぐって起こる事件と深く関わっているだろう、というのが「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」で言及しようとしていることのように思えます。
「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」は、教会事務所でも扱っています。2000円です。
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