幼稚園、教会の毎朝が始まる時、集まりで聖書を少しずつ読みます。現在は、旧約聖書サムエル記の上を読み終えて下の後半を読んでいます。一日に、読むのは10節前後ですが、それはそれは“生々しい”のですが、人間という生きものを語って止まない、そんな印象を強く持ちます。「ダビデはエルサレムの自分の家にきた。そして王は家を守るために残しておいた十人のめかけたちを取って、一つの家に入れて守り、また養ったが、彼女たちの所には、はいらなかった。彼女たちは死ぬ日まで閉じ込められ一生、妾婦(かふ)としてすごした」(サムエル記下第20章3節)「彼らがギベオンにある大石のところにいた時、アマサがきて彼らに会った。時にヨアブは軍服を着て、帯をしめ、その上にさやに納めたつるぎを腰に結んで帯びていたが、彼が進み出た時つるぎは抜け落ちた。ヨアブはアマサに、『兄弟よ、あなたは安らかですか』と言って、ヨアブは右の手をもってアマサのひげを捕えて彼に口づけしようとしたが、アマサはヨアブの手につるぎがあることに気づかなかったので、ヨアブはそれをもってアマサの腹部を刺して、そのはらわたを地に流し出し、重ねて撃つこともなく彼を殺した。こうしてヨアブとその兄弟アビシャイはピクリの子シバのあとを追った。」(サムエル記下第20章8-10節)
サムエル記は、「主を殺し、また生かし、陰府(よみ)にくだし、また上げら。主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くされる」 主なる神の民イスラエルの人たちが、その主なる神の地上における力の行使者としての「王」を求め、与えられる物語として展開されます。物語は「祭司・エリ」による一人の子どもの選びから始まります。エルサレムです。そのサムエルが、主の言葉を聞いて選んだ王がサウル、更にそれに続く王がダビデです。主の言葉が届き、かつ聞くことも出来るのがこの場合の王です。そうである限り、「生かし」「上げられ」「富ませ」「高くされ」るのですが、聞く耳を少しでも疎かにすると、その逆「殺し」「くだし」「貧しくし」「低くし」と容赦はないのです。選ばれたにも関わらず、サウルも、またダビデも容赦のない主の前に立たされます。「彼らはサウルの首を切り、そのよろいをはぎ取り、ペリシテびとの全地に人をつかわして、その良い知らせを、その偶像と民とに伝えさせた。また彼らは、そのよろいをアシタロテの神殿に置き、彼のからだをベテシャンの城壁にくぎづけにした。(サムエル記上第31章9-10節)。「さてアブサロム(ダビデの不肖の息子)はダビデの家来たちに行き会った。その時アブサロムは騾馬(らば)に乗っていたが、騾馬は大きいかしの木の、茂った枝の下を通ったので、アブサロムの頭がそのかしの木にかかって、彼は天地の間につりさがった。」(サムエル記下第18章9節)「そこで、ヨアブは『こうしてあなたと共にとどまってはおられない』と言って、手に三筋の投げやりを取り、あのかしの木にかかって、なお生きているアブサロムの心臓にこれを突き通した。ヨアブの武器を執る十人の若者たちは取り巻いて、アブサロムを撃ち殺した。(サムエル記下第18章14-15節)。「王(ダビデ)はひじょうに悲しみ、門の上のへやに上って泣いた。彼は行きながらこのように言った、『わが子アブサロムよ。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、わたしが代って死ねばよかったのに。アブサロム、わが子よ。』」(サムエル記下第18章33節)。
と、王になったとしても、決して安泰ではなく、むしろ、だからこそ厳しく問われます。それが「主は殺し、また生かし、陰府(よみ)にくだし、また上げられる。主は、貧しく、また富ませ、低くし、また高くされる」であり(サムエル記上、2勝6,7節)、誰よりもそれは王に突きつけられかつ要求されます。その主・神の言葉に耳を傾けない時の結果、王であるサウムの無残な死、王であるダビデの最愛の息子、アブサロムの死であったりします。王であるからこそ厳しいし、容赦はしないのです。
そんな「王」のことが、少なからず話題になっています。韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長の発言です。「韓国国会の文喜相議長は、8日に配信された米ブルームバーグ通信とのインタビューで、行き詰っている日韓歴史問題の解決策について、天皇陛下が元慰安婦の手を握り謝罪すれば『その一言で問題は解決する』と述べた(毎日新聞、2月9日、ソウル、堀山明子)。このことについての、「報道」は、新聞の片隅だったり、報道もされなかったりしますが、そしてこの種の問題はあれこれの配慮も働いて、そうなってしまうのでしょうが、うがった見方を徹底する週刊誌だったりすると、逆に、事実をきっちり突っ込んで書いたりすることもあります。あるのだと思う。その一つが「週刊実話」の記事だったりします。この記事の「週刊実話」の発効日、号数などは「不明」ですが、記事のタイトルは「またウソの上塗り!韓国議長『天皇は戦犯の息子』いったんは否定もその音声が公に」となっているようです。で、「音声が公に」は以下のようになっているのだそうです。「…だが同通信(米ブルームバーグ通信)が、2月12日までに公式サイトでインタビューの音声を公開した内容(18秒)には『(謝罪をするのは)日本を代表する天皇がされるのが望ましいと思う。その方はまもなく退位するといわれるから。その方は戦争犯罪の主犯の息子ではないか。だから、その方がおばあさんの手を握り、本当に申し訳なかったと一言言えば、すべて問題は解決されるだろう』とハッキリ語っているのだ」(同前、週刊実話)。この場合の、「問題」の「天皇という王」のことは、ハッキリ語らないのが、この国の「常識」になっています。多くのこの国の「全国紙」などもそれを踏襲しますから、片すみにちょこっと書くか、あるいは全く書かなかったりします。前掲の新聞は、続報として、文喜相議長は謝罪するのは「まず安倍首相、その次が天皇だ」と発言したとありますが、これも小さな小さな記事でしたから、多くの人の目にはとまらなかったはずです。
サムエル記の描く王は、それが神の前ということになると、一人のただの人間として理解されその行状が描かれます。必ずしも、そのままの文脈で言われている訳ではありませんが、たとえば次のような一節は、人間は王であり得ても神ではありえないこと、あってはならないことの道理を語っているように読めます。「もし人が人に対して罪を犯すならば、神が仲裁されるであろう。しかし、人が主(神)に対して罪を犯すならば、だれが、そのとりなしをすることができようか」(サムエル記上、2章25節)。
「戦争犯罪の主犯の息子」とも呼ばれている「主犯」の方は「戦争犯罪」とされる太平洋戦争の宣戦布告を「宣戦の詔勅」で以下のように述べています。「天佑を保有し、万世一系の皇祚を践める大日本帝国天皇は、昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。朕、茲に米国及び英国に対して戦いを宣す。朕が陸海将兵は、全力を奪って交戦に従事し、朕が百僚有司は、励精職務を奉行し、朕が衆庶は、各々其の本分を尽くし、億兆一心、国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算なからんことを期せよ」。この「言葉」が、内外におびただしい死を数えることになったのだとすれば、「戦争犯罪の主犯」であることは間違いありません。そして、「主犯」であり得たのは「人であり神である」という絶対的立場がそうさせました。宣戦布告を宣した人であり神である人の布告が、戦争の数百万の人の死になったとすれば、この人は間違いなく「主犯」なのです。文喜相国会議長の発言は、このあたりを指摘しているとすれば、間違ってはいないことになります。この「人であり神であった」天皇・人は、その後、自らを人間として宣言したとされます。「…天皇を以て現御神(あきつかみ)とし、且つ日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延いて世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず」。
…こうして語られている「架空の観念」が「戦争の数百万人の無残な死であったとすれば、その主犯の「息子」に「主犯」の贖罪を求める文喜相議長の発言はあながち的外れという訳ではありません。人として人に罪を犯し、それが人であるにもかかわらず「現御神」が王であったとしたら、「主犯の息子」は二重三重に重い「主犯」の罪の一端を、その身に負う覚悟があって初めて人間天皇であり得るはずです。本当は難しいというが不可能なので、止めておいた方がいいように思いますが。
サムエル記上・下は、手元の旧約聖書で約90ページですが、10行くらいの断片ではなく通読すると、生々しいだけではなく、それはそれは見事な生きた人間の姿が描かれていることと気付かされます。
サムエル記については、ほぼ月一回の「関西神学塾」(金曜日夜7時~9時)の講義で詳細な注解を聞くことが出来ます。(担当は、勝村弘也先生)また、「たのしい教会の火曜日」(毎週火曜日朝10時~12時)では、毎回2~3章ずつ輪読することになりました。
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