2月24日、沖縄県で実施された「県民投票」は、有権者の50%以上、そのうち70%以上、約42万人が名護市辺野古で国によって強行されている、新米軍基地建設反対の意思を示しました。この県民投票の結果については、有権者の「たった半数」しか意思表示をしなかったと評価されたりもしますが、もし、すべての有権者が投票したと換算すれば、70%以上70万人以上の圧倒的多数の沖縄の人たちが、辺野古新米軍基地に反対しているという計算が成り立つことになります。沖縄の多くの人たちの圧倒的多数が、新米軍基地建設に反対、いわゆる「民意」なのです。
この県民投票の結果を受け、3月1日にアベ首相と、玉城沖縄県知事が面談することになりました。「玉城知事は、2度の知事選だけでなく、県民投票で辺野古基地に対する反対がより明確になったとし、『民主主義国家であるわが国において直接示された民意は何より重く、尊重されなければいけない』と強調した。また、大浦湾側の軟弱地盤の改良工事など工期が長期化することを挙げ、『辺野古が唯一の日米合意に固執することは、普天間飛行場の危険性を固定化することにほかならない。県民は一日も早い普天間飛行場の問題の解決を求める思いで反対の意思を示した』と追及した。『日米特別行動委員会(SACO、サコ)進捗状況を確認し、基地返還状況を検証するために日米両政府に沖縄を加えた新しい協議の場『SACWO(サコワ)』の設置を提言した」「アベ首相は『真摯に受け止める』としつつ、普天間飛行場について『この危険な状況を置き去りにするわけにはいかない』と日米合意に基づく基地建設を変更しないことに理解を求めた。3者協議については言及せず『今後とも知事との話し合いはしっかりと続けていきたい』と返答」(以上、3月2日沖縄タイムス)。
この「面談」での玉城知事の言葉は、沖縄の人たちが県民投票で示した基地建設反対の意志「民意」をそのまま伝える言葉になっています。一方、アベ首相の言葉は、言葉が一般的に共有されるありようと、乖離しているように読めます。具体的に示すと、以下のようになります。
1、「真摯に受け止める」
「真摯」は、ある特定の人や出来事について、それが起こっている現場やそこで生きる人に直接向い合い、その人の喜びや悲しみの事実に身を寄せる、そんな立ち向い方として理解されるはずです。しかも「真摯」であるとは、その事において、徹底して謙虚である時に初めて口にできる、重い重い言葉であり、軽々しくは使ってはいけないはずです。
2、「この危険な状況を置き去りにするわけにはいかない」
もし、普天間飛行場を「この危険な状況」というなら、そのことについての具体的な理解は不可欠です。普天間飛行場が何よりも危険なのは、日常的な飛行、戦闘訓練を繰り返すそこに住宅、教育施設などが隣接する基地であること、過去にそうであったように、事故の危険を抱えているにもかかわらず、宜野湾市の中心に位置していることです。言われている「危険」は、いつか将来危険であるかも知れないではなく、現実の事故・事件を繰り返している飛行場だから危険なのです。この現実の宜野湾の人たちの危険について、基地があるそこで隣接して生活することとなった住民の責任だと言われたりもしますが、事実に反しています。沖縄戦の敗北・終結の結果、住民は捕虜として収容され、元の生活の場所から引き離されます。宜野湾の人たちも例外ではありませんでした。解放され、元の生活の場所に戻ってきた時、そこはフェンスで囲まれた米軍基地になっていました。しかも、町の中心部分で、そこは戻れませんでした。その戻れない場所の周辺に住み着いたのが、基地に隣接する場所だったのです。住むべき場所に戻ってきたら、そこは危険な場所になってしまっていたのです。
だから、「置き去りにするわけにはいかない」だったら、いろいろ、あれこれ手立てがなかった訳でも、ない訳でもありません。危険を少しでも減らす手立てをこうじればいいのです。訓練の場合の飛行経路、高度、回数、時間などを、周囲の住宅、施設などを考慮し、実施の方法を変えたり制限したりすれば、少なからず危険を減らすことは可能なはずです。しかし、そうした取り組み、要するに危険を少しでも減らすことは、考えられてもいないというのが普天間飛行場の現実です。そうとしか言いようのないのが普天間飛行場へのオスプレイの配備であり、容認です。危険な場所に、より危険なものを受け入れてしまっているのですから、「この危険な状況を置き去りにするわけにはいかない」などとは、言えるはずはないのです。なのに、尤もらしく言ってしまえるのは、「民意」の冒涜以外の何物でもありません。
(次週につづく)
[バックナンバーを表示する]