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2019年04月04週
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(前週よりのつづき)
 どんな対応もその場を取りつくろうものに過ぎません
なのに「廃炉」であるのはなぜなのだろうか。で、思い当たるのは「そんな中で、私たちは再び『知のプラットフォーム』を用意する必要があるのではないか。18世紀半ばに登場した『百科全書』のように散り散りに存在するばかりになっている情報を体系化し、しかし『百科全書』の時代のようにあらゆるテーマにしぼりつつ言葉の空白地帯を埋める形で、『そのテーマについて語るならばこれを知っておきましょう』と知識の枠組みを示す作業」と記す「福島第一原発廃炉図鑑」(開沼博編)です。まあ、言ってみれば「知識の枠組みを示す作業」を怠らなければ、「廃炉」はあり得るということになるのです。それは同じような「知識の枠組みを示す作業」を基本としていると考えられるのが前掲「Journalism」の開沼博の論文「福島をバイアスから解き放ち中間集団の再構築を」であるように読めました。そこでは、「廃炉」「デブリ取り出し」について次のように論述されています。「しかし、本当にデブリは取り出しの見通しが立たないのだろうか。当初、放射線量が高くアプローチ困難な事故を起こした原子炉内部の状況は、推測しようにも手がかりのない状況が続いたが、様々な角度からデータを取る中でデブリの位置や状態が徐々に分かってきた。今年は、デブリが実際にどの程度の硬さか調べ、取り出し作業をどう進めるかを検討するため、ロボットで物理的にデブリに接触することも予定されている」。核燃料が溶融し圧力容器、格納容器も溶かしそれが固まった状態にある「デブリ」の総量は800~1000トンと想定されています。事故から8年、その事故のすべての終了いわゆる廃炉は、そのデブリを取り出せるかどうかにかかっています。2019年2月に、作業用配管から挿入したパイプの先端部分に取り付けた触手がデプリに接触、デブリの1片を取り出したとされます。しかし、この時の一連の作業で、パイプなどが高濃度に汚染し、配管を通して高濃度の放射性物質が放出されることになりました。すなわち、事故の原子炉から危険なものを取り出そうとする時、その作業をすることによってより危険な放射性物質を放出されることになります。危険を除去しようとすればする程、危険なものを放出させることになるという、矛盾・ジレンマに突き当たってしまうのです。東電福島の重大事故は、それが重大事故であるゆえんは、「戻る」ことのできない事故であることです。たとえば、「デブリに接触」が、何かの始まりであり得ないのは、その作業場が「空間放射線量は、最大毎時3ミリシーベルト」「17時間足らずで、国の規則で定められた作業員の年間被ばく限度量(50ミリシーベルト)を超える」「調査を担う東芝エネルギーシステムズでは作業員の1日の被ばく限度量を1.5ミリシーベルト」「作業できる時間は長くても30分」2月13日の「作業員の最大被ばく量も1ミリシーベルト未満」であったりすることと、その意味です。被曝の作業限度について、国際放射線防護委員会(ICRP)2007年勧告は、以下のように勧告しています。「計画被ばく状況における職員被曝に対して、委員会は、“その限度は定められた5年間の平均で年間20m㏜(5年で100m㏜)の実効線量として表されるべきであり、かつその1年間においても実効線量は50m㏜を超えるべきでない”という追加の規定がつくことを引き続き勧告する」。2月13日に2号機で、「デブリ接触」の作業に携わった人たちも、その人たちが作業から解放されて戻る場所は、普通に生活する人たちの世界であるはずです。「作業員の最大被ばく量も1ミリシーベルト未満」であったとしても、その人たちが健康・命に影響があるとされる作業場で働く、しかしたった30分の作業でそんなことになってしまう場所を、自分たちの働き場所として選ばなければならない理由はないはずです。普通に考えて、そこは人間の仕事をする、ないしはできる場所ではないのです。「Journalism」の開沼論文「福島をバイアスから解き放ち…」は、「…食事の前には手を洗えなどと、労働災害や感染症を防ごうと作業員に呼びかけ続けている。実際の音を聞いた個人に委ねられるだろう解釈の可能性と選別の余地の開かれた『福島の今』こそ、本来、もっと多くの人に届けられるべき現実」と、福島の現実を語って見せます。しかし、東電福島の事故現場作業で、「デブリに接触する」作業は、それに携わる限り、自らの生命・健康を守る余地はありません。そこにいる限り被曝するのですから。開沼論文は「しかし、本当にデブリ取り出しの見通しは立たないのだろうか」と問い、更に一歩進めて「取り出し作業をどう進めるか検討する」「ロボットで物理的にデブリに接触」と、デブリ取り出しの取り組みが可能であると判断しているように読めます。その判断には、作業する作業員の被曝の問題、そこが普通に判断して人間が働く現場ではあり得ないという判断はすっぽり抜け落ちています。
 東電福島で起こった重大事故が、それが重大事故であるのは、修復が不可能であることです。それを、大きくは、汚染水問題、除染・中間貯蔵施設問題、デブリ取り出し問題にしぼって検討しました。そのいずれも、どんな対応もその場を取りつくろうものにすぎず、何一つ解決にはつながらないことを述べました。なのに、それらのすべてを取りつくろうとしているに過ぎないことを、言説を弄して更に取りつくろっているのが開沼論文であることを指摘しました。




(次週につづく)

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