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小さな手大きな手

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2019年05月04週
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 後に、そして現在も、関心を寄せることになったアフガニスタンについて、関心から少なからず理解をすることになったきっかけは「アフガニスタンの風」(ドリス・レッシング、晶文社)に出会ったことです。それも、「解説」にあたる部分の「対談」が、鶴見俊輔と長田弘であることに気付いて、文句なしに読むことになりました。鶴見俊輔は、学生時代からのファンで、長田弘は新聞の書評で、詩集「食卓一期一会」が、詩として解り易いというのを見て、それ以来、長田弘の詩、更に評論などを手当たり次第に読んできました。そんな2人が対談で語っているのですから、読まないはずはありませんでした。「アフガニスタンの風」は、晶文社の「双書20世紀紀行」全12冊の一冊で、他も順次目を通すことになりました。たとえば「目に見ない傷痕/お父さん、戦争のとき何をしたの」は、アメリカに移住した女性が「父と祖国(ヒトラー・ナチスのドイツ)の隠された歴史をドイツで訪ね歩く」、そんな歴史紀行です。現在、公開されている映画「僕たちは希望という名の列
車に乗った」は、ヒトラー・ナチスのドイツの戦争の後を生きる若者たちが、親たちの世代の戦争・歴史の悲惨を、好むと好まざるにかかわらず向い合うことになる、しかし、若者たちが絶望ではなく、希望と希望への道を切り開いて行く、いい映画だと言えます。
 で、もし、ドリス・レッシングの「アフガニスタンの風」に出会って、読まなかったら、アフガニスタンへの関心はほとんどないか薄かったはずです。アフガニスタンの人たちが「大破局」と呼ぶ1979年のソ連の侵攻は、文字通り、アフガニスタンという国のすべてを破壊し尽します。「…アフガニスタン美しい場所はすべて爆撃で砂漠と化し、人びとは3人に1人は死んだか、難民として故国を離れている。しかし世界はほとんど無関心のままだ」。「アフガニスタンの風」に出会うまでは「ほとんど無関心のまま」の一人だったのが、細々とであれ、今に到るまで関心を持ち続ける力になりました。イスラムのアフガニスタンは、ドリス・レッシングが訪ねた1986年も、今も男の支配で女性は家の中で「ベール」に閉じ込めるのが、宗教上の決まりとして強制されます。それはそれで、扱い難い、イスラム世界の典型的なアフガニスタンであるのですが、描かれる女性も男たちも、人間として魅力に満ちています。女性に対して暴君で差別者以外のなにものでもない男たちなのですが、重装備したソ連軍と対峙する戦場におもむく時の一人一人は、重装備のソ連軍に何らひるむことなく立ち向かいます。戦士、ムジャヒディンとなった男たちは、銃一丁の軽装備で、10万の重装備のソ連軍と対峙し、過酷な戦場でそれをむかえうつ「男」たちなのです。まあ、かっこいい「男」たちなのです。数えきれない戦士・ムジャヒディンは帰ってきませんでした。ドリス・レッシングの「アフガニスタンの風」は「人類をとらえつづける戦争という病いを見極めようとする、作家の緊張感あふれる思索行」ですが、身を置いて思索する時のより近くを恐れません。「アフガニスタン難民であふれかえるパキスタンの町シャワルを訪ね、前線で闘うレジスタンス・ゲリアや銃後の女性たちのなまなましい声をつぶさに聞き取った」、その「大破局」の「アフガニスタンの風」が引き金になって、ユーゴスラヴィア解体後の内戦、その渦中のサラエボに身を置いた記録ゴイティソーロの「サラエボ・ノート」、同じ著者の「パレスチナノート」などにも目を通すことになります。
 そのパレスチナもまた、アフガニスタンの人たちが言った、「大破局」「大惨事」の渦中を70年経った今も生き続けています。「難民として故国を離れている。しかし世界はほとんど無関心のままだ…」。およそ70年前の、1948年5月14日、パレスチナに、イスラエル国家が建国されます。そこは、1000年を超えて、パレスチナ人が、自分たちの郷土・祖国として生きてきた場所でした。第2次世界大戦の、戦争、戦後処理の問題の一つとして、ユダヤ人の国家をつくることに国際社会が合意しその場所として選ばれたのがパレスチナです。ユダヤ人にとって、建国であったその事実は、パレスチナ人にとっては、郷土・祖国を力ずくで追われ難民となった「大惨事」でした。「パレスチナ自治区各地では15日、1948年5月のイスラエル建国に伴い約70万人のパレスチナ人が難民となった『ナクバ(大惨事)』の日を迎え、抗議デモが行われた。ガザでは約10000人が参加、一部がイスラエル軍に投石するなどし、軍は催涙弾やゴム弾を発砲した。デモ隊に数十人の負傷者が出たが、懸念されていた大規模な衝突は回避された」「パレスチナのメディアによると、国連やカタールの当局がガザに入り、情勢が緊迫化しないよう働き掛けていた。ガザを実効支配するイスラム組織ハマスなどがデモ隊に対し、イスラエルとの境界に近づかないよう指示したとの情報もある。ヨルダン川西岸の自治区ラマラなどでも行われた」(5月16日、毎日新聞)。同じ新聞には、抗議デモに参加するパレスチナ人の写真も掲載されています。それには「大量の難民を生んだ1948年のイスラエルの建国に抗議するデモに参加するパレスチナの人々。故郷帰還のシンボルである『鍵』を掲げている」(同前、毎日新聞)。
 この日、パレスチナの15日の「『大惨事』の日の抗議デモ」を報道した日本の新聞がどれだけあるのか、たぶん、多くの日本の新聞も、日本人にとっても、遠い世界の遠い出来事であったはずです。「…難民として祖国を離れている。しかし世界はほとんど無関心のままだ…」。そうではあるのですが、理解できている範囲で、前掲の新聞や報道について、「注」を付してみることにします。

約70万人のパレスチナ人難民となった:難民のパレスチナ難民は約550万人で、ヨルダンやレバノンの難民キャンプなどで生活している。そのうち、約140万人がガザの難民キャンプで生活している。ガザの人口は約190万人。
ガザ:ガザは、西が地中海に面し、南北およそ50キロメートル、東西は広い場所で約15キロメートルの地域で、現在そのすべての境界はイスラエルによって、高さ7メートルのコンクリートの壁で塞がれている。壁からの出入りは、イスラエル軍によって、厳しく規制されている。地中海側も海上封鎖の状態であり、ガザからは出ることもできないし、入ることもできない。それは人間だけでなく、すべての物資の出入りも、イスラエルによって規制されている。交通の手段もない。
イスラエルとの境界:イスラエルとの境界は、イスラエルの築いた高さ7メートルのコンクリートの壁。その「境界に近づく」と、壁越しにイスラエル兵が発砲する。ナクバの15日「ガザでは約10000人が参加、一部がイスラエル軍に投石するなどし、軍は催涙弾やゴム弾を発砲した」とあるが、そんな生やさしくはなくて、壁に近づいたパレスチナ人を銃撃している。
故郷帰還のシンボルである「鍵」を掲げている:1948年5月のイスラエル建国で、難民となったパレスチナ人たちは、1000年以上住んでいたそこを追われるにあたって持ちものが、住んでいた家の「鍵」だけだった。故郷を追われて70年、難民となったパレスチナ人たちは、そのカギを肌身離さず持ち続けていた。肌身離さず持ち続けている鍵は「故郷帰還のシンボル」ではなく。70年前にそこを追われたその時に住んでいた住宅の本物の鍵。ラマラのデモに参加しているパレスチナ人の掲げている大きなプラカードのような鍵はシンボル。それは「大惨事」を何よりも象徴する。彼らが今、難民であるということは、「生きる手段としての仕事」「生きて生活してきた歴史」「それを家族と共にきざんできた『家』」を奪われたことであるとしたら、鍵はそのすべてを奪われ続けていることの象徴。
(次週に続く)
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