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2019年07月02週
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 新出生前診断を広く医療機関に認め広めることの可否、明らかになった人工透析患者の医療の中断の事実とその可否が、「話題」になって「消えて行く」ことに、同じではないけれど、ある種の不自然さと違和感を持ちます。これらは「生きる生命」と、その生命の「意味」と「死」をいかに理解するかと言う、人にとって避けて通れない事実との向い合い方についての根源的な問いであるという意味で、それが少なからず軽視ないし素通りしていることへの、不自然さである違和感であるとも言えます。
 この生きる意味と死について「『死すべき者』の生き方」と言うことでの考察が紹介されていました。(朝日新聞2019年2月6日、佐伯啓思)。考察は、「安楽死」の事実を追いかけた、テレビ番組から始まります。「先日、『NHKスペシャル』で、ある日本人が安楽死を遂げるというドキュメントを放映しており、大きな反響をよんだようだ。安楽死には基本的にふたつある。一つは消極的安楽死で、これは終末期にある患者に対して積極的な延命治療をしない、というもの。もうひとつは、積極的安楽死で、こちらは、患者の意思が明確である。苦痛が耐え難い、回復の見込みがない、代替治療がない、といったいくつかの条件のもとで、医療従事者が患者に対して積極的な死を与える、というものである。ここで問題なのは積極的安楽死であり、NHKの番組もこちらのケースである」。次いでこの人の「安楽死」についての考え方も述べられています。「私は、安楽死はかねて肯定的であった。消極的安楽死は当然、積極的安楽死も一定の条件のもとで容認されるべきだと思っている。だが、同時にそれらを『尊厳死』と呼ぶことには抵抗があった。なぜなら、『死』とは、人間の、いや生物であり生命体であるものの根源的な事実であって、死に方に尊厳もないだろうと思っていたからである。生命がこと切れれば死ぬだけである。イヌやネコに尊厳死も何もないであろう。死という意味では人間も同じだ、と思っている」「先日、ドイツの哲学者ハイデガーの書いたものを読んでいたら、次のような文章にであった。人間が『死すべき者』と呼ばれるのは、人間が死ぬことができるからである。死ぬのは人間だけである。動物はただ生を終えるだけである。なるほど、と思った。動物は死なないのである。ただ自然に生命が消えるだけだ。『死』とは一つの意識であり、意図である。人間は死を意識し、死に方を経験することができる」。たぶん、こうした考察の、たとえは「イヌやネコ」について、イヌやネコと生活し、生活する人間の一部になり「苦楽」を共にした人たちの場合、少なからず「異議」があるはずです。ましてや「動物は死なないのである。ただ自然に生命が消えるだけである」などと言われたら「この人は、動植物の生きものとしての生命とその死をただ見つめたことがない、『愚か者』」と言わざるを得ないように思えます。先日も、幼稚園の庭に一羽の雀の死骸を見つけた先生は驚いていました。更に昨年、教会、幼稚園の前を流れる津門川に工事中の過失で流れ込んだ、アルカリ性物質(PH13~14)である充填剤で大量の川魚たちが、のたうち回りながら死んで行った様子を見たとしたら、「…動物は死なないのである。ただ自然に生命が消えるだけだ』とは決して言えないように思えます。以下、それらの生きもの、動物を追悼する意味でも文章を書いてみました。

夜の静けさが
アリとアリの決意が
朝つゆの光が
僕を守っている

ちぎれたクモの糸が
遠い星のまたたきが
一枚の落ちた葉っぱが
僕を守っている

一羽の雀の死骸が
破れた蝶の羽根が
過ぎていった時間が
僕を守っている

すり減ったゴムゾウリが
切り取った爪が
抜けた一本の歯が
僕を守っている

壊れたどろだんごが
死んだ川魚たちの記憶が
乾いた涙が
僕を守っている

空に書いた文字が
心と体に残る傷が
僕の出会った人間たちが
僕を守っている


 で、「『死すべき者』の生き方」及びもう一つのタイトルで「葛藤の末に安楽死、人間にしかできない、最後の選び方」を、考察した人の、この問題についての結びは、結局は「死」と言う事実、出来事に圧倒されているように読めました。「近代社会は、すべてを合理的に、法的に整理しなければ気が済まない。曖昧さを排除し、一律に管理しようとするが、それでは問題は解決しない。多様な死に方を認めるほかなかろう。我々は、近代社会の極限で、死というもっとも人間的で根本的な問題に改めて突きあたってしまったのである」。
 でも、しかし、冒頭で紹介した、新出生前診断や、人工透析患者の医療の中断の事実の場合、それらの事実、現実について考察の余地があるように思えます。新出生前診断を「開業医も可能に」の、すでに実施されている新出生前診断の状況は以下の通りです。「新出生前診断は2013年に臨床研究として始まった。2018年3月までに6万人近くが受診し、胎児の染色体異常が確定した妊婦900人のうちほぼ8割が人工妊娠中絶を選んでいる。しかし、ルールを守らずに検査を提案する開業医などに行く妊婦が増えており、認定施設に行きづらい地域もあり、条件の緩和を望む声があった」(7月9日、日経新聞)。胎児のDNAを調べ、ダウン症などを引き起こす3つの染色体異常を見つける、血液採取だけで実施されるこの診断と、その結果取られている処置の結果は前掲の通りです。「6万人近くが受診」「染色体異常が確定した妊婦900人のうちほぼ8割が人工妊娠中絶を選んでいる」。2013年から始まって、2018年までに6万人が受診したとされる妊婦は、妊婦全体の何%なのか、また、確定したうちのほぼ2割はそれでも出産しているとすれば、この新出生前診断が人間の生命についての理解や判断において社会全体の合意を得られていないことを意味します。じゃなくて、人間の生きる命、生命というものが、本来はほぼ一人一人全く別の人格を持つこと、そのことにおいて尊いことが、どんな意味でも機械的な判断にはゆだねられないことがないがしろにされていることも意味します。あるいは、日本婦人科学会が、学問の名において、人間存在の根本的理解をはき違えていると言わざるを得ません。
(次週に続く)

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